誰でも手軽に使えるパソコンとか、手軽に始められる株取引とか、手軽に出来るんだったらちょっとやってみようかと人は思うものなのだ。手軽に出来る解脱法とかね。
手軽に出来る援助交際や、手軽にできる自殺なんてのも、衝動的というよりも、むしろ、衝動すらなくごく手軽にちょっとやってみるかという気になるのだろう。これはもう何か人間の精神構造がそうなっているから仕方がないのではないか。
学校教育にしても、ゲームの攻略にしても、Windowsの使い方にしても、移項して降べきの順に整理したり、中央一歩右から右上に向かって爆弾を転がしたり、何かプログラムを起動して、三回連続「はい」をクリックしたりするときに、理由や結果を考えたりしないで、やってみて書いてあるのと同じ結果になるかそれとも同じ結果にならないかということだけが重要だと感じるのである。
何かのやり方が書いてあったら、そのとおりにやってみる。
まるで我々は、手順が書かれたマニュアルがあったら、それを自動的に実行する機械のようなものだ。それは欠点ではなくて、それが出来ないと現代社会を生きていくことが困難なのだ。
とにかくやってみろ! やればうまくいくことがわかる。
それは教えている方でもなぜうまくいくのかが分からないから、説明できないのだ。いや、ホント、コンピュータだって魔界の生き物だから、どうしてうまくいくのかも、どうしてうまくいかないのかも、よく知っているつもりでも分からない。これで必要な情報はすべて与えたから、プログラムは処理を続行できるはずだと思っても、プログラムがそう書かれていなければ、エラーになるし、これでは情報が足りないと思っても、何かデフォルトの値があったりして、うまく動いてしまったりする。
説明する方がそうだから、説明される方にもともかく説明のとおりにやってみるという能力が要求される。もしかしたら、あとで何をしたのか考えることもあるかもしれないが、説明のとおりにやらないと次の説明がなされないのだから、抵抗しても無駄なのである。
説明の通りにやったら、説明の通りになったと言って喜ぶ習慣がついているのである。
そこで、それはソレとして対策も思いつかないので、手軽にできる正義の味方とか、手軽にできる人助けとか、とりあえず、そういう方向を考えてみるのはどうだろうか。
完全人道マニュアルとか。
手軽に出来る民主主義とかもいい。けど、「主義」という言葉が手軽と言うには重過ぎる。
暖かくなってきたのに、背筋がゾクゾクしています。やはり、コレはアレルギー絡みだと思われる。ところで、背筋がゾクゾクするというは、不快感なのでしょうか、それとも快感なのでしょうか?
背筋がゾクゾクするという言葉は快感の表現としても使われるし、不快感の表現としても使われるように思う。不快ではなく快だと思うことにすればよいのだろうか。
これに似たものに、しびれるという表現がある。痺れは不快感だが、シビレルーというのは絶賛の言葉だったりする。初めてフリーの雀荘に行ったときようなシビレる感覚は、やはり快感なのであろうか。
それから、あがるというのがある。人前であがる。あがってしまってしゃべれなくなって失敗する。だから、人はあがることを避ける傾向があるが、あの頭にかーっと血が上った感覚は、酒に酔った時よりももっと気持ちのいいものだと思う。
昔はよくあがったのに、最近は全然あがらなくなってしまった。歳を取ったのだ。悲しい。もしや、あがる練習をすればふたたび昔のようにあがれるだろうか。
未勝利日記 復活への道のり
未勝利日記復活とは汚名挽回に似た何かなのか。