神霊地狩り

杉並太郎

 

 鍛冶(かじ)トーコは神霊対策課の課長である。巨漢という形容がぴったりの鍛冶であるが、性別は女性だ。

 神霊対策課は忙しい。昨年、神霊対策の基本方針が変わってから仕事が増えたのだ。その上、年度末で提出しなければならない報告書が何通もある。更に事務所移転の準備もしなければならない。

「おはようございまーす」

 2年目の青戸が元気のいい挨拶と共に部屋に入ってきた。元気だけが取り柄とも評されるが、気持ちのいい青年だ。

「おはよう」

「おー」

 課内から様々な声が応える。移転のための段ボールがあちこちに積み上げてあるので、メンバーの何人かは陰になって姿が見えないが、鍛治の部下は全員揃ったようだ。班の全員で有給休暇を取った3班は別だが。

 鍛冶トーコは朝の挨拶をする。

「あー、皇帝陛下が本日も健康であることを祈りつつ、ちゃっちゃと移転の準備をしたく思うわけだ。忙しくて申し訳ないが、嫌でも今週一杯の辛抱だ。なんとか乗り切って欲しい」

 課員からバラバラに「おー」とか「うーっす」という声が上がる。こんな感じでいいと鍛冶は思っている。あまり堅苦しいのは苦手なのだ。

 狭い課内に20人を越えるメンバーである。これは仕事が増えて増員された結果だから、ある程度は仕方がない。面倒な事務所移転作業もより広い部屋に移るためには必要だ。同時に行われる組織替えも行政府内の一部署である神霊対策課から皇帝陛下直属の神霊対策所へと組織強化されるためである。

「神霊体出現しました。属性善。場所は……」

 受付担当者の声が室内に響く。現状では神霊対策の受付は警察や消防と共同の部署であるが、これも新年度からは神霊対策所内に専門の部署が出来る。

「はい、了解。1班出ます」

 素早い反応で森班長の1班が現場に出ていく。いつもはこんなに早くない。移転準備が嫌なのだろう。

 善属性の神霊体なら、そんなに急ぐ必要はない。ずっと以前は善属性の神霊体は放置していたのである。しかし、善属性であってもいずれは闇落ちする。闇落ちした神霊体が大きな被害を出した事件以後、早めに対応してお帰り頂くように方針が変更されたわけだ。

「課長、新たな神霊地が発見されました。2班は調査に向かいます」

 清水班長が机の前に報告に来る。

「いや、待てよ。荷物は詰めたのか。神霊地の調査は後回しでもいいんじゃないか」

「いえ、課長。危険な悪属性の神霊体を生み出す怖れもあります。大まかな調査だけでもしておくべきです。むしろ、発見次第消滅させるのが基本方針のはずです」

 清水班長は一見すると事務系の美人だが、実際には現場大好きの戦闘人間である。彼女の言うことは正しい。神霊対策方針の変更で最も重要な点は、神霊地を積極的に消滅させることになった点である。とはいえ、清水班長も事務作業や片付けは苦手で避けようとしているのは間違いない。

 課内で書類仕事をソツなくこなせるのは3班だけだ。その3班はすでに提出するべき書類は提出し、移転の荷物もすべて発送済みである。そしてソツなく有休を取得している。班内のまとまりはとてもよく、突出した戦闘力を持つ個人はいないがチームワークで神霊体と戦って実績を挙げている。そして、みんなで有休を取って温泉旅行らしい。

 総務課から通信が入り、年度末までの予算の消化が進んでいないと注意される。通常は翌年度に繰り越しても問題ないのだが、組織変更があるために予算を全額消化するようにという連絡である。

「もっと早く言ってくれよ」

 鍛冶は予算消化の定番である弾丸を注文するように事務端末に入力した。銀の弾丸2百発、破魔矢百本と入力していき、あとは通常弾で調整しようとして、ふと思いついて折りたたみコンテナを20箱注文する。どの班も荷造りする気がないようだが、最後は全部コンテナにぶち込んで運べばいい。

 年度末で退職する人が挨拶に来たりして対応しているうちに、気がつくと課内には鍛冶と風祭(かざまつり)課長補佐しかいなかった。みんな現場に逃げやがった。

「あんたは楽しそうだな」

「楽しいということはありませんが、私たちにとっての年度末の事務作業は、課長にとっての戦闘のようなものですから」

 風祭は根っから事務畑の人間である。現場馬鹿とも言われる鍛冶に比べれば、何倍もの事務能力がある。神霊対策課は風祭の事務能力がなければ回らない。

「失礼します。職場研修に来ました」

 神霊対策課の入口から声がする。二人の若者が入口のところに仲良く並んでいた。背の高い男と背の低い女の組み合わせだ。

「あー、すまん。ちょっとそのまま待ってくれ」

 今年は職場研修は受け入れないという連絡をしたはずである。風祭に確認させると、二人は隣の地域の神霊対策課で職場研修をすることになっていた。そっちは組織替えだけで移転がないので研修を受け入れたらしい。通常は地元で研修することになるので新人が間違えたのだろう。

 採用前に仮採用という形で職場研修を実施する制度に鍛冶は批判的である。研修は暇な時に受け入れたい。新年度が始まって2ヶ月もすれば落ち着くから、その頃に新人を受け入れるとうまく研修ができる。

 新人は研修中に限らずなにかとやらかすものだが、いきなり研修部署を間違えるとはなかなかの大物である。鍛冶としては、新人につまらないことで心を挫いて欲しくない。今から隣の地域まで行ったのでは大遅刻である。

「こっちに来ているなら、こっちで研修するように手配してくれ」

 風祭ならそのくらいの手配は簡単だろう。

「また無茶をいいますね」

「向こうだって研修生をこっちに押し付けられて喜ぶだろう」

「わかりましたよ」

 さて、何をやらせるか。鍛冶は思案した。移転の荷造りをさせたのでは、仕事に対するモチベーションが下がってしまう。梱包という名目で、武器でも見せておくか。いや、それは危険すぎる。

 神霊体出現を告げるアナウンスがあった。今日は多い。そして全員出払っている。嫌な作業を避けるために緊急性の低い出動をしているから、いざという時に人が足りなくなるのだ。部下に甘過ぎたか。

 出動している班のなかで早く終わったところを向かわせればいいだろう。そこまで緊急性はない。万一、このあとさらに危険な神霊体が出現して暴れるようなら、緊急性の低いところの対応を中断して回せばいい。

 課長という立場で考えると、個々の神霊体に対応することよりも組織を維持し、部下のモチベーションを維持し、予算を獲得し続けることの方が重要である。

 今の問題は研修生にやり甲斐のある、そして重要でない作業を割り当てるということである。しかし、それ以前に鍛冶自身のモチベーションが下がっていた。本当に書類仕事は面倒くさい。あたしも1日くらい有給休暇を取った方が、その後の仕事の効率が上がるんだが……。鍛冶はそう思った。

「ちょっと出てくる」

「どこに?」

 風祭が不審そうに聞き返す。

「あー、神霊体の対策に」

「課長、あんたまでナニする気ですか?」

 風祭はあきれた顔をした。

「アレだ、ほら、研修生に神霊体対策の実体験をしてもらうっていう理屈はどうだ?」

「馬鹿言わないで下さい。危険ですよ」

「あたしん時は、研修なんてなかったし、配属されてすぐに神霊体対策に駆り出されたもんだ」

 役職に就いていなかったあの頃はよかったと鍛冶は思う。

「いつの時代の話ですか」

「ついこの間だろう。ほんの二、三十年前だし……。それに強さは弱という報告だ。一般人でも対応できるレベルだ」

「初期分析の精度は高くありません」

「それこそ昔の話だろう。最近の誤差は極めて小さい」

 風祭もまた古い人間なのだ。

「飛行機械も出払ってますよ。修理中のが2機ありますから」

 そうだった。鍛冶は思い出した。前からしつこく要求していた修理費だったが、補正予算が通ったとかで年度末にまとめて下りてきたのである。そこで傷みの激しい2機をメンテナンスに出したのだ。

「来年度から配備される新型を使うさ。いつでも納品できるって技術研究所から連絡があった。納品の手間を省いてやろう」

 鍛治は強引な理屈を考えた。この新型はまさに組織が拡大することの結果として導入されるのだ。早めに使っても問題はない。いや、むしろ修理中の2機の代わりに使うべきものだ。新型導入のために、修理費の支出が遅れたのだから。

「新しいオモチャで遊びたい子供ですか」

「はいはい、そうですよ。あたしゃ子供ですよ。だから行くよ」

 風祭はあきれた顔をした。止めても無駄だろう。鍛治が無茶をして最後に風祭が後処理をすることになる。それが神霊対策課のいつものパターンである。

「せめて武器を持って行って下さい」

 風祭は付け加える。鍛冶はストレス発散のために神霊体相手の肉弾戦をやりかねない。一般人に目撃されたら噂になる。

「ああ、そうだな。じゃあ、そこの骨董品を持っていくか。博物館に送る予定だったやつ。研修生でも使えるだろう」

「あれはマズいでしょうよ」

「いや、今でも正式な武器として使用が許可されている。何の問題もない」

 鍛冶は研修生二人を連れて神霊対策課を出て行った。

「まったく困った課長だ。あんな原始的な武器を振り回したら、たちまち噂になるのに」

 ひとり残された風祭がつぶやいた。

 鍛冶課長は部下に甘いと自己分析しているようだが、風祭がみるところ、それ以上に自分自身に甘い人である。神霊体対策で人並み外れた実績を上げているから課長になったものの管理職の器ではない。風祭が課長補佐の役割を演じつつ、陰から制御しているのでなんとか課内がまとまっているのである。

 

 

  * * *

 

「ビニールは破くなよ」

 鍛冶は技術研究所で新型飛行機械に乗り込むと、研修生にそう言った。

「これを破くのが大好きなやつがうちの課に居てね。他人が破くと拗ねるんだよ。あと、名前も勝手につけちゃダメだぞ。名前つけるのが好きなやつが居るからな。そいつに任せることにしてるんだ」

 そう言えば、研修生の名前を聞いていなかった。もちろん、鍛冶は新年度から配置される新人の名前を知っているし、先程研修について調べたときにも確認している。しかし、自分が直接知らせていない情報を他人が持っていることに気持ち悪さを感じる人は多い。自己紹介させてから名前を呼んだほうがいい。

 その前にやることがある。鍛冶は飛行機械に行先を入力した。旧型では不安定だった自動操縦が新型では使えるレベルになっている……はずだ。人類の独自技術だって進歩しているのだ。

 飛行機械が離陸すると、鍛治は何をしていいか分からずただきょろきょろとあたりを見回していた研修生と向き合った。

「まずは自己紹介を頼む。あたしは課長の鍛冶トーコだ。課長と言ってもごらんの通りの現場人間でね。じゃあ、次はあんたが自己紹介してくれ」

 鍛冶は男の方を指した。

「大木ジンです。特に取り柄はありません。雑用でもなんでもやります」

 大木ジンは背が高い。鍛冶もかなり背の高い方だが、同じくらいの身長である。ただ、横幅は鍛冶よりずっと細い。平均よりもかなり痩せているのではないだろうか。久しぶりに着た戦闘服が窮屈な鍛冶とは大違いである。

「それは有り難い。雑用ならいくらでもあるから、そのうち頼もう。だが、今日は雑用じゃないぞ」

 雑用を喜んでやるやつなら雑用をやらせておけばよかった。鍛冶は少し後悔した。いや口ではそう言っても、実際に雑用をやらせると嫌がる人は多いものだ。

 続いて女の方が喋った。

船場(せんば)アンズです。肉体労働は苦手です。知的労働を回して頂けると有り難いと思います」

 船場アンズは逆に背が低い。まあ、課内で最も背が低い3班長に比べれば成人女性の範疇ではある。

「そいつはいいね。これからの神霊対策は頭脳労働だって言われてるんだ」

 実際になかなかの知的労働なのである。言葉通りに知的労働が得意なら即戦力として使いたいものだ。

「さて、まずは神霊体について軽くおさらいをしようか。なあに、テストじゃないから気楽に答えてくれればいいさ。神霊体とは?」

「物理学では説明できない現象を擬人化したものです」

「我々の知る物理学の範囲では、いまのところうまく説明がつかない現象が、擬人化または動物化されたものです。魔物とか妖怪とか神などとみなされます」

 船場が細かく説明する。

「まあ、だいたいそんなものだな。擬人化したのではなくて、されたという方がいいな。疑似人格化という言い方もあるが、あたしたち人間は、あるいは一般人は、現象に擬似人格を無意識に与えてしまうからね。誰かが擬似人格化しようという意志を持っているわけではないんだ。そして、そう神霊体には本来は善も悪もなく、正も邪もない。そういう属性は人間がつい無意識に与えてしまうんだな。じゃあ、つぎに神霊地は分かるかな?」

 二人は顔を見合わせた。

「神霊体が出てくる所……ですよね」

「まあ、大雑把に言えばそうなんだけど、実は、神霊体が出てこない神霊地も結構多いんだ。昔は、パワースポットと言われたり、幽霊が出る場所として知られていた所だが、これはあたしたち人間の物理学ではうまく扱えない特殊な点、特異点と考えられている」

 まだ座学研修でも神霊地に対する講義は十分ではないようだ。神霊対策課の対応が神霊体から神霊地へ、守りから攻めに変わりつつあることは、課員でも十分には理解していないというのが実情だ。新年度からの組織変更を単なる規模拡大だと考えている。

「視覚化アドオンが開発されて、特殊な人だけでなく、誰でも神霊体を見ることが出来るようになったので、一時はちょっとした騒動になったものだ。まあ、それはあたしたち神霊対策専門部署の設立でなんとか落ち着いたんだがね。最近になって、神霊体の出現する神霊特異点が一般に知れ渡ると、特異点、特異点とマスコミなんかが大げさに騒ぎ立てるものだから、社会不安が増大してな。そこで皇帝陛下が神霊特異点が解消できるという欽定定理を示してくださったのだよ。恐れ多くも畏くもね」

 惑星人類をはるかに超える知識体系を持つ、この星唯一の存在である皇帝陛下は実に慈悲深く、惑星人類の社会不安にも優しい対処をしてくださる。だが、鍛冶はそのことに複雑な感情を抱いていた。もちろん、皇帝陛下の降臨によって滅亡しかかっていた惑星人類が救済された歴史は知っている。

 この惑星の人類は人類の一部に過ぎないことは、昔から知られていた。しかし、皇帝陛下が降臨するまでは交流がなかったのである。直接の交流だけでなく通信による情報交換もなかった。そして皇帝陛下によって外星人類圏の知識がもたらされたのである。

「そういうわけで、今後、神霊対策課は神霊地を消し、神霊体の出現を根本から阻止する。まあ、言ってみれば個々の敵を倒すのではなく、敵の基地を潰していくようなものだ。もちろん、これは例えであって、神霊体は敵とは違う」

 敵と言ったのはまずかったか。何かに例えることはいつも難しい。

「欽定定理を覚えて欲しい。あたしたち惑星人類の物理学を越える知識を持つ皇帝陛下より賜った定理なので正しい。天下り定理とも言う。証明は我々には理解不可能なので正しいものとして受け入れるしかない定理である。欽定定理によれば、神霊特異点は代数曲線の特異点に対応していて、代数曲線の特異点を解消することによって神霊特異点も解消される」

 大木も船場も黙っている。仕方のないことかもしれない。証明できない定理は定理ではない。皇帝陛下の存在同様に黙って受け入れるしかないのだ。

 説明はこのくらいにしよう。飛行機械が目的地に着く前に、神霊対策の準備をしておく必要がある。

「武器の扱いを教えよう。古い武器だが強力だ」

 鍛冶は博物館に送るために梱包されていた武器ケースを開けた。その中には多くの突起のついた棍棒が五本入っていた。世間ではこれを釘バットと呼ぶ。

「基本姿勢はこうだ。やってみな」

 鍛冶は少し足を開いて立ち、持ち手を上にして釘バットを床に立て、両手をその上に置いた。それだけで懐かしさと自信が込み上げてくる。釘バットは鍛冶にとって頼もしい武器なのだ。

「そうしたら、気合を入れる」

 鍛冶が軽く気合を入れると、釘バットを中心にして気合の波が走り、その波は飛行機械の壁に当たって反射を繰り返し、しばらく空間に満ちていた。

 視覚化アドオンを有効化していた船場は心構えが出来ていたが、有効化していなかった大木は鍛冶の気合に当たって一瞬ふらついた。その失態を誤魔化すように言う。

「凄い、凄いです」

「じゃあ、やってみな。そうだな、何か使えるアドオンがあれば有効化した方がいいぞ。自信を高める系統のものを持ってないか」

 アドオンは脳の機能を強化するソフトウェアである。機能強化ハードウェアと違って脳の機能が大幅に向上するわけではないが、なにより安い。見た目もひどくならない。一般の生活でも広く使われているし、専門職もそれぞれに専用のアドオンを使用する。ただし、多数のアドオンを同時に有効化すると脳のリソースが逼迫して効果が下がる。様々なデータを視覚化するアドオンは最も広く使われているアドオンのひとつである。

「じゃあ、やりますよ。うりゃあ!」

 大木は手持ちのアドオンをひとつ有効化して自信を高めてから、気合を入れた。釘バットを中心に気合の波が広がり、飛行機械の壁に当たって消えた。

「それでいい。次は船場さんもやってみて」

 船場も手持ちのアドオンを有効化してから気合を入れた。釘バットを中心として気合の波と好感の波が広がり、飛行機械の室内を満たした。

「あ、何だ今のは? 何のアドオンを使ったんだ?」

「はい、就活アドオンです。面接用の」

 船場は悪びれもせずに答えた。好印象はまだ消えていない。

「ちなみに、大木の使ったアドオンは?」

「えっ、言うんですか? ……わかったっす。言うっすよ。ナンパ用のっす。いや、ちょっと気になって買ってみただけっすよ。使ったことはないっす。ほんとっすよ」

 大木はしぶしぶ白状した。アンズの前で言いたくはなかったのだが……。大木はヤケになったように口調を変える。恥ずかしさを誤魔化すために軽薄なキャラクターを演じることにしたのだ。

 悪いことを聞いてしまったと鍛冶は思った。しかしまあ、ナンパ用のアドオンなんてものも売っているのか。もっとも、大木の買ったアドオンはあまり優れたものではなかったようだ。船場の就活アドオンの方がナンパに向いているだろう。まあ、ナンパ用のアイテムなんてそんなものかも知れないが。

「インチキ商品を掴まされたようだな」

「いいっすよ、もう」

 大木は少しむくれてみせた。

 飛行機械が神霊体の出現現場に着くまでに、鍛冶は研修生たちに釘バットの使い方を一通り教えた。基本は上から下に振り下ろすこと。これなら味方に当たる危険が少ない。

 なんと言っても武器に不慣れな味方ほど怖ろしいものはない。戦場で二番目に怖ろしいものは無能な味方であり、最も怖ろしいのは無能な上官であるという諺だかジョークだかもあるくらいだ。

 そして、構えて気を張り続けること。釘バットはその見かけに反して防御にも優れている。しかし初心者にとって、気を張り続けることは結構難しい。鍛冶は、気を張ることのコツを二人に教えた。

「簡単に言えば気合を入れ続けること」

 鍛冶がやってみせると、室内の空気が張りつめた。視覚化アドオンの効果で鍛冶の持っている釘バットを中心として静かな波が絶えることなく発生している様子が見える。

「大木、ちょっと気合を入れて見てくれ」

「いくっすよ、はい!」

 大木の釘バットから発生した波は急速に減衰してたちまち消えてしまった。

「あれっ?」

 大木は間抜けな声をあげた。

「気にするな、これが気を張ること効果のひとつだ。他人の気合が通らなくなる。神霊体にとっては攻撃の効果が削がれるということだ。それから、波として視覚化されているけれど、実際は波ではない。とはいえ、物理学生でもない限りは波だと思ってイメージして問題ない」

 鍛冶は二人に交互に気を張ることと、気合を入れることの練習をさせた。鍛冶の目から見れば、二人とも未熟である。しかし、鍛冶もかつては未熟だったのだ。過大な期待をしてはいけない。成長を導くのだ。

 

 

  * * *

 

 現場は山の中にある神社の近くで、飛行機械の着陸に適当な場所はなかった。不整地着陸も能力的には可能だが、鍛冶としては新品に傷をつけたくない。着陸場所がないのはよくあることで、飛行機械を空中停止させて降下装置を使えばよいのだが、研修生は降下装置を使えるだろうか。

 地上2メートルという低空から降下装置を使って研修生を順に降ろす。足元が狭く、掴まるところがロープだけという降下装置でも、このくらいの高さなら怯えることなく使えるはずだ。鍛冶としては装置を使うのがなんとなく恥ずかしいくらいの高度だ。

 飛行機械を上空待機させて神霊体を探す。半端に強い課員では神霊体が逃げてしまうので、捜索は結構面倒になる。今回は鍛冶と研修生二人なので、鍛冶が完全に気配を消せば、神霊体も怯えることはないだろう。

 神霊体は人に引き寄せられる性質がある。人が神霊体を神として畏れ敬って祀った時代の記憶を何らかの形で引き継いでいるのだろうか。あるいは、好奇心のようなものから人に近づくのか。神霊体は善悪、正邪の別を人から与えてもらうために人に近づくという説もある。

 探査装置に映るぼんやりした影で、神霊体の大まかな位置は分かる。

「ゆっくり進め」

 鍛冶は二人に指示して神霊体を取り囲むように進ませる。ただし、二人が視界から外れないようにする必要があったから、大きく囲むことは出来ない。その上、二人の歩みは素人のもので、神霊体に位置が筒抜けだろう。

 素人の歩き方が神霊体を引き寄せたのか、ひょっこり神霊体が姿を現した。

 鍛冶は神霊体に気づかれる前に姿を隠し、第一印象を抑制して印象を持たずに神霊体を見る。小型で半透明の神霊体だ。

「なんか、可愛いっすね」

 緊張感の欠片もない大木の声が響く。

「これ退治するのはやりにくいっすよ。もう少し迫力があればいいのに」

「そういうこと言ったらダメだって」

 船場が大木を止めるが、神霊体に対してはむしろ逆効果である。善にせよ悪にせよ、神霊体は人の望みや怖れを叶えようとする性質があるのだ。船場の言葉には怖れの感情が含まれている。

 鍛冶は気配を殺して隠れている。二人に実際の危険が迫らない限りは隠れて見守るつもりだ。

 大木の望みと船場の怖れに反応して神霊体が姿を変える。角と牙のようなものが生え、体が大きくなる。まだ属性は定まらない。人間の対応を待っているのだ。

「大丈夫、かわいい、かわいい。八重歯みたい。大丈夫」

 船場の言葉は神霊体に語り掛けるようでもあり、自分自身に言い聞かせているようでもある。かなり頑張っていると鍛冶は思う。

 神霊体は船場の語り掛けに反応し、体の透明度を下げて全身に和毛を生やした。何かしら愛玩動物のように見える。

 神霊体に適切な属性を与え、そして納得のいく形で神霊体を消滅させるという方法に正解はない。人によってやり方は異なる。鍛冶の場合は、友好的競争相手という立場を認識させてから殴り合って満足させて消滅という流れを得意とする。この方法は一人で倒せる相手の場合にはうまくいくが、集団でないと倒せないような強力な神霊体の場合にはうまくいかない。その場合は別の流れにする必要がある。

 大木には変化した神霊体が可愛く見えなかった。むしろ邪悪さを隠して媚びているように見えた。神霊体を退治するという決心がつき、釘バットを振り上げる。

 神霊体は大木の殺気を感じたのか、逃げ道を探した。

 逃げられては面倒だ。鍛冶は神霊体の逃げ道を塞ぐように気合を放った。こっちの方向にはずっと怖い存在が隠れているぞ。

 鍛冶の殺気を感じ、逃げ道を断たれたと思った神霊体は船場の方に走った。

 そのとき、その場の関係者に暗黙の合意が成立した。

「おいで、私があなたを守る」

 船場は両腕を広げて神霊体を迎えた。そこに神霊体が飛び込む。

「邪魔するな!」

 大木が更に大きく釘バットを振り上げて、船場に迫る。船場は神霊体を守るように抱きしめた。大木は船場に向かって釘バットを振り下ろす。

 空振りだ。バットは地面を叩く。

 船場は片手で神霊体を抱きつつ、もう片方の手で釘バットを構え、気合を入れた。強い守りの波動が現れる。

 大木は地面に突き刺さった釘バットを引き抜き、頭上に振り上げる。バットに着いた土くれがぽとりと落ちた。

 船場が大木を睨みつける。大木は気圧されて動きを止めた。神霊体は弱々しい鳴き声を出す。

「そいつを渡せ」

「渡しません」

 船場は頑なに拒否する。

 大木は一歩足を踏み出した。そこから釘バットを振り下ろせば確実に船場に当たる位置だ。そして大木は釘バットを振り下ろした。

 神霊体が船場の腕をすり抜けて、大木の釘バットに突進する。釘バットが神霊体を引き裂く。そして神霊体は消滅した。船場を守れたことに満足したかのようなやさしい顔が一瞬だけ見えた。

「どうです、俺の演技力!」

 大木が自慢する。あまりにもわざとらしかったので、研修生の怪我に気を使う鍛冶でさえ演技であることは分かったくらいだが。

「うむ、なかなかうまい流れだった」

 まずは褒めておく。鍛冶から見れば問題がないわけでもないが、その場にいた二人とそして神霊体の息が合って出来上がった話の流れである。

「神霊体はまわりの人間の願望を叶えようという性質があるからな。二人のそれぞれの願望と神霊体の本質がうまく一致したわけだ。強引な退治法よりずっとよい解決策だ」

「私は演技じゃなくて、本当に……」

 船場は少し動揺している。

「わかるよ。神霊体に演技は通用しない」

 何が演技で何が本心かなどという区別は意味がない。その場の流れで心のあり方が流されてしまう。それは神霊体も同様であり、どちらが仕掛けてどちらが流されるという性質のものではない。それゆえに、神霊体は善でも悪でもなく、正でも邪でもないと言われるのだ。

「よし、次に進もうか」

 いつまでも感情を引きずっていては仕事にならない。研修生といってもそれは同じだ。

「まだ他に神霊体がいるっすか? 次も任せて欲しいっすよ」

 大木が期待するように尋ねる。

「次は、神霊地の解消だ」

 

 

  * * *

 

 探査装置が示していたのは、歩いて数分の地点である。そこには涸れた井戸があった。近くの神社が使っていたものだろう。人が落ちないように木の蓋がしてある。

「これだな。ここが神霊特異点だ」

「普通の涸れ井戸に見えるっす。視覚化アドオンでもそんなに違いはないっす」

「じゃあ、うちの課のアドオンを入れる必要があるな」

 鍛冶は二人に神霊対策課のアドオンを導入した。本人同意などの必要な手続きはその場で済ませた。

「欽定定理により、神霊特異点は代数多様体の特異点に対応している。さて、まずは代数多様体について復習しようか」

「タヨウタイっすか?」

 大木は代数多様体の定義を思い出せなかったようだ。

「代数多様体は、多項式・イコール・ゼロという形で表わされる図形です」

 大木に代わって船場が答えた。

「そうそう。あたしたちゃ数学者ってわけじゃないから、それで十分だ。代数多様体の特異点は?」

「多項式の、多変数多項式ですけど、どの変数で偏微分しても偏微分がゼロになる点です。多項式なので微分は出来るはずです」

「まあそうだな。複数の多項式の共通ゼロ点も代数多様体になる。それじゃあ、ここの神霊特異点を見てみよう」

 アドオンの機能によって神霊特異点に対応する特異点を持つ代数多様体が視覚化される。それは一つの代数方程式で表わされる曲面であった。

「ここが特異点だな」

 鍛冶は原点を指し示す。

「見るからに特異点っすね。尖っていて分かりやすいっす」

「さて、この特異点を解消する方法だが、ブローアップという方法を使う。この尖っているところが尖って見えるのは、影を見ているからで影の元になる実体は尖っていないかも知れないと考えるわけだ。そして影から実体を得ることが出来れば尖ったところのない、つまり特異点のない図形が得られると考える」

「ブローアップ! なんか、必殺技みたいで格好いいっす」

「その前に、射影空間について復習するよ」

 射影空間について説明するのは、もちろん射影空間を使うからだが、それだけではない。射影空間にある座標変数の間の関係式がブローアップにおいて重要だからである。

「これはわかるっす。射影空間は複比の空間っすよ」

 大木が得意そうに答える。船場アンズの前でいいところを見せようというのだろう。若い男は動機が透ける。鍛冶のような経験豊富な人間からすれば、考えていることは手に取るようにわかる。おそらく、この二人は今日が初対面ではない。二人揃って研修場所を間違えるはずがない。待ち合わせをして一緒に研修に来る程度の仲ではあるのだろう。幼馴染か。

「そうだな。だが、まず(たい)を決めようか。複素数体としたいところだが、実数体にしておこうか。有理数体でもいいが。どの体でも射影空間は構成できるが、まあ、数学者じゃないんだから、具体的な体にしよう。じゃあ、実数体な」

「複素数でも全然大丈夫っすよ」

「じゃあ、複素数にするか」

「実数でお願いします」

 大木がコロリと態度を変えた。鍛冶にはそういう大木がむしろ可愛いと思える。

「3次元の線形空間は、3個の変数の組で表される。ここで3個の変数の間には一次式で表される関係がないことが重要だ」

「一次独立っすね。わかるっす」

「実数の射影空間、実射影空間もまた、何個かの変数の組で表される。3個の変数\(x, y, z\)だとすると\((x:y:z)\)で表される点と、それぞれを何倍かした点は同一とみなす。たとえば\((1:2:3)\)と\((2:4:6)\)は同じ点だ。整数倍に限らず実数倍もだぞ」

「それが複比ということっすね。分数みたいなものっすよ」

「ゼロ分のゼロという分数がないように\((0:0:0)\)という点はないことにする。集合から取り去っておくということだ」

「既約分数みたいに約分みたいなことをしたような気がするっす」

「なかなかうまい誘導だな」

 大木がうまく話を誘導するので、鍛冶は説明が楽だ。船場はちゃんと分かっている様子で、確認するように時々頷いている。あとは大木さえ分かれば問題ない。二人以外に聞いているものはいないのだから。

「どんと任せるっすよ」

「分数は整数の比だから既約の形にできるが、実数は体なのでゼロ以外ならなんでも割れるわけだ。そこで、$x$がゼロでなければ全部を$x$で割って、$x$のところを$1$に出来る。実質的な変数は$y$のところと$z$のところにだけ表れる。しかし$x$がゼロのときもあるわけだ。そこで今度は$x$がゼロかどうかは気にしないで、$y$がゼロでなければ$y$で割るとする。そうすると、$x$のところと$z$のところにだけ変数が表れる。さらに$z$がゼロでない場合も考えられる。そして、全部ゼロということはないという約束なので$x, y, z$のどれかはゼロでないということになり、どこか一箇所は$1$に出来ることになる」

「場合分けすれば、それぞれの場合で変数は二つということっすね」

「そうだ。そこで三つの実数の複比で表わされる射影空間は2次元実射影空間と呼ばれる」

「座標変数の数が次元の数ではないということっすね。これはしっかり覚えてるっすよ」

「そして分数では分母がゼロになることはないが、複比ではひとひとつの項はゼロになり得る。そこが違う」

「ああ、思い出しったすよ。確か、無限遠点とか言うっす」

「そうだ。そして、三つに場合分けしたが、この場合分けは大幅に重なっている場合分けだ」

「$x, y, z$のどれ一つとしてゼロではない時には、場合1にも場合2にも場合3にも当てはまるっすね」

「あたしたちゃあ数学者じゃないから、射影空間はこんな感じで説明を終える。そしていよいよブローアップだ」

 鍛冶はそこで一息ついて、視覚化アドオンを調整した。説明をずっとしていると気分が高揚することがある。講義ハイとでも言うのだろうか。自我が肥大して自分が何もかも分かっているような気分になるのだ。それがある意味では危険な精神状態であることを鍛冶は理解している。調子に乗って余計なことを言い、学問的に間違えてしまうことも多い。しかし、何か自分の知っていることを話しまくることに、非常に強い快感を覚えることも確かである。それは戦闘の興奮状態にも似た快感であった。

「今回の代数多様体は3次元実アフィン代数多様体だ。アフィンのところはそんなに気にしなくていい。だいたい線形空間と似たようなものだ」

「俺たち数学者じゃないっすから」

 大木は鍛冶の言い方を真似した。

「まさにその通り。で、この代数多様体が入っているアフィン空間の座標変数と同じ数の座標変数を持つ射影空間を用意する。つまり2次元実射影空間だ」

 鍛冶はそこで2次元実射影空間を視覚化する。また、3次元実アフィン空間も同時に視覚化する。

「そして、その射影空間とこの空間の直積を作る」

「そんなことをしたら無茶苦茶次元が上がるっすよ」

「慌てるな。そこに座標変数の間に成り立つ関係式をうまいこと入れるのだ」

 鍛冶はそう言って直積空間の定義を表す式を示した。これは、視覚化ではない。ただ数式を表示しただけであり、集合の記号と直積を表す掛け算の記号、そして座標変数の間の関係式が具体的に示されている。もちろん、視覚化アドオンはこういうことも出来る。

「そしてその直積空間からこの最初のアフィン空間への射影を定義する。この射影が光を当てて影を作り出すことに相当する。この射影とは直積のうちアフィン空間の分だけを取り出すというものだ」

「射影は簡単ですね。関係式がうまく入らなかったらどうなるんですか?」

 船場が心配そうに尋ねる。

「まあ待て。その関係式と射影によって、特異点以外の点は1対1に対応し、特異点に対応する逆像は射影空間全体となる。そういう関係式は、実は自動的に決められる。というか、そう決めることによって影の元になる実体を一方的に決めてしまうということだ。実体が先にあって影があるのではなくて、まず影となる代数多様体があり、そこにある特異点を解消するために都合の良い実体を作り出すわけだ。だから実体とか影という言葉は不正確である」

「そうすると実体の次元はどうなるっすか?」

 大木が質問した。次元という数学上の概念は一般に広く知られているが、厳密な定義は意外に知られていない。

「あー、次元について論じるためには、次元の定義をしなければならないぞ」

「じゃ、いいっす」

「実際に計算をしてみてから考えた方が実感があって分かりやすいと思うよ」

 大木はあっさりあきらめた。これは有り難いと鍛治は思った。次元の定義もいろいろあってきちんとやるのは面倒なのだ。

「じゃあ、実際に関係式を見てみようか。この特異点は原点にあるから簡単だ」

 鍛冶は特異点を指し示した。

「関係式は、アフィン空間の座標変数を$x,y,z$、射影空間の座標変数を$s,t,u$として$xt=ys$, $xu=zs$, $yu=zt$という形だな。そして、射影空間が複比の空間であることを考えると、原点$(0,0,0)$以外の$(a, b, c)$という点は、$((a, b, c)\times(a:b:c))$という点から射影されて来たことが分かる」

「同じのが並んでいるだけじゃないですか。これは俺でもわかるっすよ」

「そうだ、数学者がこうするとうまくいくと考えたんだな。つまり船場のさっきの質問に対する答えは、いつでもうまくいくということだ」

「射影と射影空間は違うんですか?」

 船場が尋ねる。船場は質問がうまい。

「たぶん、そこには切っても切れない密接な関係があると思うんだが、それぞれ独立に定義される。射影というのは2回同じ写像を適用しても1回適用したときと同じ結果になるような写像を言う」

「定義域と値域が違うから2回適用は出来ないと思います」

 船場から鍛治に、もっともなツッコミが入る。

「数学者みたいなことを言うんだな。値域が定義域の部分集合とみなせる場合は、そうみなすことによって何回でも適用できるのだ。数学者はそういうみなし方をごく気楽にやるもんだが」

 鍛冶は喉の渇きを覚えたのでちょっと言葉を切って、水分を補給した。興奮して説明していると喉が渇くのだ。汗もかいている。

「さて、この射影を仮に$\varphi$ということにしよう。$\varphi$を逆に使って、この代数多様体、こっちを$X$としよう。$X$を大きな方の空間に持って行く。特異点以外は1対1の対応があるから簡単に持って行ける。特異点についてだが、あー、これは持って行かない。まず、特異点を除いた代数多様体の逆像を取るんだ。今、特異点は原点$\mathbf{0}$だから、つまり$\varphi^{-1}(X - \{\mathbf{0}\})$というわけだ。見てみよう」

 アドオンが鍛冶の説明を視覚化する。数式ではなく3次元の図形として表示しようとした。

 大木はどんな映像が現れるかと期待していたが、映像が現れるよりも先に凄まじい頭痛と吐き気に襲われ、立っていられなくなって地面に座り込んだ。船場も大木と同じように座り込んでいる。

 アドオンは脳で働くソフトウェアであって、ハードウェアとしては脳を利用している。代数多様体の逆像を視覚化することは二人の脳に大きな負担となったのである。

「すまない、悪かった。最初は脳に負担がかかるんだ。忘れていた」

 鍛冶は頭痛薬を二人に与えた。これでかなり楽になるはずだ。二人が回復するまでしばらく休憩する。

 山の中は静かで鳥の声がよく聞こえた。風が吹いて木漏れ日が揺れる。数学をするには最高の環境だ。

「さて、特異点を除いた逆像が得られたわけだが、これでは代数多様体にならない。そこで、閉包を取るわけだ。そうすると穴が埋まって代数多様体になる。ここまでがブローアップだ。これを$\widetilde{X}$としよう。つまり、$\widetilde{X}=\overline{\varphi^{-1}(X - \{\mathbf{0}\})}$」

「先生、質問です」

 まだ多少気分の悪そうな船場が手を上げた。鍛冶を先生と間違えたというよりも、船場にとって一種の決まり文句なのだろう。優秀でかわいい生徒という役割を無意識に演じているのかも知れない。うぶな男性教師ならたちまち心を奪われて、恋に落ちてもおかしくない。恋に落ちないとしても、好意を持って相手が理解するまで丁寧に教えようという気になるはずだ。

 おそらく自覚はしていないのだろうが、船場の優秀さは教師と擬似恋愛状態になってがんばって勉強するということを繰り返して来た結果なのではないだろうか。鍛冶がそう思うのは、学生時代に親しかった友人が何度も教師との疑似恋愛をしていたからである。

「先生じゃないけど、なんだ?」

「閉包ということは、位相があるはずですが、どういう位相ですか?」

「あんたは数学者か」

 鍛冶はツッコミ気味に言う。なかなか本質的な質問である。さて、どう説明しようか。鍛冶は少し考えてから、確かこれでいいはずという説明をした。

「代数多様体は、多項式・イコール・ゼロという形で定義されるわけだが、これはアフィン空間のふつうの位相で閉集合になる。イコールってところが閉集合っぽいだろう? そこで考えを逆転させて、多項式・イコール・ゼロという形の集合を基本閉集合系としてこの新しい空間の位相を決めるのだ」

「位相って、開集合で決めたと思うんですけど」

「ああ、集合論の入門書ではそう書かれてるか。まあ、開集合で決めても、閉集合で決めても、どっちでもいいんだ。なぜなら、閉集合を決めれば開集合も決まるから」

「でも多項式・イコール・ゼロで閉包をとるって、具体的には何をするんですか?」

 素晴らしい。こういう質問をする生徒と疑似恋愛関係に落ちてしまう教師の気持ちがよく分かる。得意な話をする高揚感と合わさって、人生経験が豊富でヘテロを自称する鍛冶ですらもクラクラするほどだ。

 しかし、その感情はその場の雰囲気に流されたものであり、神霊体が作る話の流れのようなものであって、鍛冶本来の感情ではない。神霊体に対しては流れに乗るのも作戦の一つだが、部下相手に感情に流されて課長は務まらない。

「具体的には何もしない。数学的には閉包をとっているが、数学者でないあたしたちには何もしていないように見えるんだ」

「でも何もしなかったらもとの方程式のまま変わらないのでは?」

「素人には変わらないように見えても、数学者の目で見ると変わっているのだ。どう変わっているか調べるために、場合分けしてみよう。直積したときのもうひとつの空間は射影空間だから、前に言ったように場合分けが出来る。その場合分けと、座標変数間の関係式を使って方程式を書き直すんだよ。さあ、計算しよう。頭脳労働の時間だ」

 鍛冶は二人に計算するよう促した。

「紙はありませんか?」

 船場が尋ねる。実に分かっている。

「お、いいね。あたしの経験でもアドオンを使うより、紙で計算したほうが早かったりする。それに最初は紙と鉛筆で計算したほうが身に付くってもんだ」

 鍛冶が筆記用具を与えると、大木と船場は涸れ井戸の蓋の上で多項式の計算を始めた。その間に、鍛冶は戦闘の準備をした。事務作業のストレスとは別の何かを発散させるためにも戦闘が必要だ。さっきは二人に神霊体の相手をさせたので、物足りないのである。

「出来ました!」

 場合分けのそれぞれについて、ひとつずつ方程式が計算された。ひとつの方程式で表わされる代数多様体から、三つの方程式に場合分けされた代数多様体が得られたのである。ブローアップの完成だ。

 船場も大木もどこか誇らしげである。褒めて下さいという気持ちが態度に表れている。

「よし、じゃあ、その方程式の特異点を求めるんだ」

「えっ? 特異点の解消が出来たのではないのですか?」

 優秀な船場も勘違いしたようだ。実を言うと、鍛冶も初めてブローアップによる特異点解消の計算をした時には、同じ勘違いをしたのである。生徒が自分と同じ勘違いをして、それを訂正するのはなんとなく誇らしい。

「いいから、偏微分して特異点を求めてごらん」

「この方程式には特異点はありません」

「こっちには特異点があるっす」

「こちらの方程式にも特異点があります」

 二人は次々と計算した。

「増えてるっす。消滅どころか、増えてるっすよ」

 大木は情けない声を上げた。

「うむ、増えることもあるんだ。大丈夫、1個1個ブローアップしていけば、最後には全部消える」

 一般論として厳密にそうだという訳ではないが、今回に限れば大丈夫だということを鍛冶は確認済みだ。あたしゃ数学者じゃないからね。

 次の段階に進む前に、求めた代数多様体の方程式を空間変換装置に入力させる。装置の使い方は簡単だが、その仕組がどうなっているのか知っているのは皇帝陛下のみである。

「場合分けした段階で、実は最初のアフィン空間と同型になるんだ。そして変数の数も最初と同じだから、適当に変数の名前を置き換えればいい。そうすると方程式が違うだけで最初と同じ状況になるわけだ。そうしたら、またブローアップするんだ。そしてまた特異点があれば、またブローアップする。特異点がなくなるまで、これを続けるんだ。あたしは新しい特異点に対応する神霊特異点の様子を見てくる」

 鍛冶の経験からすると、特異点解消の過程で新たに発生した神霊特異点からは神霊体が出現しやすい。探査装置の示す神霊特異点に鍛冶が行ってみると、まさに神霊体が姿を現し始めているところである。

 鍛冶は釘バットを振りまわして、まだ形も定まらない神霊体を叩きのめして消滅させた。そこで言い忘れたことを思い出し、急いで涸れ井戸に戻った。

「そうそう、ひとつ言い忘れてたよ。特異点が原点でない場合は、座標変数間の関係式をその分ずらすんだ。あとは分かるだろう。じゃあ」

 突然戻って来て一言だけ言って走り去る鍛冶に、大木と船場はややあっけにとられた。つい先程までの講義調の課長とは全然違う。先生というよりもはしゃいでいる子供である。鍛冶との疑似恋愛に落ちかけていた船場もすっかり冷めた。

 関係式をずらすという説明も、その一言だけではよく分からない。船場と大木は額を寄せ合って相談し、ようやく意味がわかった。分かってみれば、確かにずらしているだけだが、計算は面倒になる。その上、場合分けが多いから、計算する方程式も多かった。

「いやぁ、いい汗かいたわー」

 二人が最後のブローアップの結果についての偏微分を計算し終えたところに、鍛冶が戻って来た。すっかり満足した様子だ。鍛冶を見るなり悪属性となって襲い掛かってきた神霊体を次々と倒したのだという。

「もう特異点はないっす」

 大木は疲れのこもった声を出した。

 二人のために鍛冶がすべての場合分けの結果を視覚化した。視覚化された曲面はひとつのまとまった図形になっている。どこにも特異点のないきれいな図形である。

「よし、いいぞ。お疲れさま」

 その言葉に二人はアドオンを無効化して、肩の力を抜いた。知的労働と視覚化アドオンによる消耗で二人ともぐったりとしていた。

「最後に質問していいっすか?」

「なんだ?」

「代数多様体の特異点解消したことによって、神霊特異点もなくなったわけですよね」

「そうだが」

「つまり、空間の構造が変わったということじゃないですか。なんか1点をぼわっと膨らますようなことを合計5回もやったわけですよ。つまり、この空間はぼわぼわぼわっと膨らんだようなものになったってことですか?」

「うん、その通りだが」

「いいんですか、そんな風に空間を変えてしまって」

「なあに、現実空間ってやつはもともと君たちが思っているほどきれいな形はしてないさ。むしろ、傷ついて凹んだところを膨らませて元に戻したと考えればいい。ところで次元はどうなっていると思う?」

 鍛冶の質問に大木はちょっと考えてから答えた。

「射影空間は座標変数が三つあっても場合分けのそれぞれで2次元になるなら2次元っていうんですよね。そうすると、ブローアップの場合も場合分けすると結局は元と同じ次元になるから、次元としては変わらないってことじゃないですかね。小数点以下の次元があれば、少し上がっているかも知れませんが」

「まあ、次元は変わらないでいいんじゃないかな。だから、空間の構造だってそんなに無茶苦茶変わるわけじゃない。ほんの少し変わるだけなのさ」

 二人は納得していないながらもアドオンを無効化した。それを確認してから、鍛冶は別の視覚化をした。その視覚化を使うと、特異点解消の例外集合繋がり方がDynkin図形として見えるのである。最初にしては難しいかと思って二人には説明しなかったが、特異点がどうなるかを見ることも重要である。1回のブローアップで代数多様体$X$は$\varphi^{-1}$によって$\widetilde{X}$になるが、$\varphi$の定義域を大きな空間全体から$\widetilde{X}$に狭めた写像を考えこれを$\widetilde{\varphi}$とする。すると$\widetilde{\varphi}$の値域は当然$X$になる。いまは原点が特異点なので、$\widetilde{X}$の中の特異点に相当する部分は$\widetilde{\varphi}^{-1}(\mathbf{0})$となる。これを例外集合という。鍛冶のイメージとしては曲面の中の直線とか曲線になる。1回のブローアップで特異点が解消されない場合は、この例外集合の中に次の特異点があることになる。そこからもう一度ブローアップするとまた例外集合として線が得られる。そして特異点がなくなった時にこれらの線がどう繋がっているかという繋がり方を図示したものをDynkin図形という。そしてそれは数学のリー群の理論に現れるルート系という概念を示しているという。鍛冶はよく理解していないが、皇帝陛下が神霊地を解消する目的は、ルート系に対応する何かの物理現象なり物質なりを手に入れるためではないかと思っている。これまでの神霊地狩りでは、神霊対策課とは別の組織がルート系を回収していたようなのだ。

「ちょっと一周りしてくる。武器を片付けて飛行機械に戻ってくれ」

 二人を残してその場を離れると、鍛冶は探査装置を使って何か変わった物質が出現していないか探した。やがて鍛冶は手の平に乗るくらいの大きさの結晶をひとつ見つけた。

「これがルート系か」

 ルート系のひとつに対応する結晶を手に入れたことが、皇帝陛下に対する切り札になるのか、それとも自分の首を絞めることになるのか鍛冶には判断がつかなかった。それでもこれが現場に出る最後のチャンスであり、つまりルート系を手に入れる唯一のチャンスであると気づいたら、鍛冶は結晶を拾い上げていた。

 外星人にいつまでも統治させておく訳にはいかない。たとえ慈悲深き保護者の役割を演じているにしても。