避けようもなかった。
いきなりシールドのプラスチックが破れて、ガソリン車が突っ込んできたのだ。
確かにそのあたりは道路がカーブしていて、時々車がぶつかることがあるようだ。シールドの柱が前から曲がっていた。
そうは言ってもすべての車に交通管制システムが組み込まれていることだし、仮にそれを振り切ったとしても、電気自動車では加速が効かない。スピード馬鹿がどこかで前世紀のガソリン車を手に入れたのだ。
交通管制システムはもちろん、緊急停止システムも組み込まなかったくせに運転者保護システムには金をかけてやがった。
俺はこういうやつらには我慢がならない。危険なことをしようが、法律を破ろうが知ったことではないが、自分の安全だけは確保しておいて、他人の命を危険にさらすようなやつらは許せないのだ。
もちろんそういったことは、後から知ったことで、その時はいきなりシールドを破って現われたガソリン車から逃げることも出来ず、俺はただ馬鹿みたいに轢かれただけだった。俺を轢いたあとも車は停まらず、もう一枚のシールドを破って、禁煙歩道の方に頭を出してようやく停まった。
俺は車にぶつかり弾かれたようだ。脚が痛い。骨が折れているに違いない。その上、スラックスは破れ、真っ赤に染まっていた。
「私は看護婦よ。まかせて」
簡易マスクをした髪の長い女性が俺を覗き込んだ。彼女の顔は輝いていた。それが彼女との出会いだった。
俺は何か気のきいたセリフを吐こうとしたが、かすかに息を吐き出しただけだった。
彼女はすぐに俺のからだを診て応急手当を施した。その途中のどこかで気を失っていた。
気がつくと太った女医がサラマンダーを吸いながら俺を見下ろしていた。それは新発売の煙草で、さかんにコマーシャルが流れていたものだ。
ということは、喫煙区の病院にいるということだ。つまり、生きていて、煙草が吸える。
「残念ながら、今日は駄目よ。低濃度のニコチンを点滴に入れてあげるから、それで我慢しなさい。少なくとも禁断症状は出ないはず」
俺が一番知りたいことを最初に教えてくれる。
「それにしても馬鹿な話よね。あのガソリン車の運転手、時速一二〇キロで一般道を運転しながら、ガールフレンドに実況中継してたって。それというのもガールフレンドが彼の車には絶対乗らないと宣言したからで。煙草を吸おうとした時に、手の数が足りないのに気がついたってわけ」
「奴の保険料が馬鹿高くなりますように」
「ほんとよね。でも、保険料滞納中に人を轢いたりしなきゃいいけど」
「でも轢かれたのが俺でよかったぜ。もし、禁煙区の連中を轢いていたら、今頃やつらギャギャアわめきたてているところだぜ」
「そうそう。あんたの命を救ったのは禁煙区の看護婦だって。あんた、覚えてる? 彼女の応急処置がなければ、今頃火葬場よ」
「俺は煙を吸うのは好きだが、自分が煙になるのはちょっと御免だね。えらい美人の天使に会ったような気がしていたが、白衣の天使ってわけか」
「あたしもそんな風に呼ばれてみたいもんだね。白衣も着てることだし。まあ、彼女には感謝することだね。なにしろ、向こう側の人間がこっち側に来て助けてくれたんだから。簡易マスクはしてたみたいだけど、髪が長かったから相当匂いが着いちゃったんじゃないかな」
「お礼がしたいんだが、IDわかるかな」
「残念でした。看護婦は一番ストーカーに狙われる職業だからね。わかっても教えられない。だいたい、彼女は向こう側の人間だよ。禁煙者だよ。そこんとこをよく考えるんだね」
「俺はただお礼がしたいだけさ」
「メールくらいなら転送してやれるかもね。調べてみないと分からないけれど」
「そいつを頼む」
「そのへんにパッドがあるはずだよ。患者が喋れない時のために。そいつに書いておいてくれれば明日の回診で受け取れる」
「いまのが回診だったのか」
「お喋りしに来たとでも思った?」
医者が出て行った時には俺はもう決心していた。なんとしてでも彼女を見つけ出し、直接会ってやる。そのためには禁煙だってする覚悟だった。
俺はパッドを取ろうとして起き上がれないことに気がついた。脚は吊られているし、ろくに身動きも出来ない。先のことを考え過ぎていたようだ。
俺は看護婦がまわってきた時にパッドを取ってもらった。さんざん考えたものの、ありきたりの文句しか浮かんでこなかった。おれは文章で自分を表現するタイプじゃないんだ。なんとか直接会ってこの想いを打ちあけるしかない。
だが彼女は、ちくしょう、俺は彼女の名前すら知らないのだ。彼女は禁煙区の人間だ。どうやったら会えるだろう。禁煙区から喫煙区に来る道はある。俺もその道を通ってこちらに来たのだ。
子供の時には誰もが禁煙区にいる。両親とも喫煙者だったとしても子供は禁煙区で育てられる。この点からして、俺は分煙という考え方が喫煙者に不利だと思うのだが、まだ結婚していないので特に不満には思っていない。
やがて悪友にそそのかされるか、密売人から買うかして煙草を吸うようになる。すぐにバレて喫煙区に追い払われることになる。もちろん、二十歳を過ぎていれば、喫煙区に移ることを申告してもいい。
一方、禁煙したから禁煙区に移ると言っても、すぐには禁煙区には移れない。血液モニタを身につけて、三ヶ月間禁煙していることを証明してからでないと禁煙区に移れないのだ。その間も、まわりの人間は煙草を吸い続けているわけだから、禁煙などほとんど不可能なのだ。それに、喫煙区では休む間もなく煙草のコマーシャルが流れているのだから。
俺には禁煙を実行する覚悟はあるが、三ヶ月も待つ忍耐はない。別のルートを考えなければならない。
禁煙区と喫煙区を分けているのは簡単なプラスチック板の壁、シールドだ。壊すのも乗り越えるのもそんなに難しいことじゃない。ただ、馬鹿に神経質な禁煙区の連中は、喫煙区との境界を常時監視している。監視カメラ、煙センサ、匂いセンサでだ。風の強い日にちょっと乱気流が起こって煙が壁を越えてもすぐに文句を言ってきて、壁を高くしようとする。
もっとも、壁を越えようという人間はいない。煙草を吸えない世界にわざわざ行きたがる喫煙者がどこにいるというのだ。喫煙者の親が子供に会いたい時には面接施設を利用することになっている。だが、最近では子供を育てなくて済むと喜んでいる親の方が多いそうだ。
住宅地でははっきりと分かれている喫煙区と禁煙区だが街の中心部でははっきりした境界はない。会社によっては喫煙オフィスと禁煙オフィスを別のビルに分けるほどの金がない場合がある。だから、ビルの中が二つに区切ってあるだけの場合もあるし、フロア内が区切ってあるだけのこともある。
そういうビルには入り口が二つあってエレベータも最低二機はある。そして歩道はプラスチックの壁で二つに分けられている。これは二次元空間上では問題となるが、地下道でメビウスの輪のようにひねってあるから大丈夫だ。
喫煙者と禁煙者はすぐ近くをすれ違いながら生活しているのだ。
どこかにドアがあって喫煙区から禁煙区に行くことが出来るはずだ。だが、それがどこにあるか分からない。
車道は共通だが、歩道との間には壁がある。禁煙者のやつらは、運転手が道路に投げ捨てる吸い殻まで警戒しているのだ。交通管制システムのせいで喫煙区の駐車場を出発した車は喫煙区の駐車場にしか停まれない。
いくら考えても無駄だ。退院してから歩き回って探した方がましだろう。
俺は退院後、会社には自宅療養と届けておいて松葉杖をつきながら街の中を歩き回って壁を抜ける道を探していた。電車は改札から喫煙者と禁煙者で分かれているし、プラットホームは屋根とプラットホーム・ドアで仕切られている。地方に行けば仕切りはぞんざいになることが分かったが、禁煙者側の都市の入り口でチェックがあるのかも知れない。
どこも無理をすれば通れるようでもあり、厳重に監視されているような気もする。
そんな時、俺はスカウトと出会った。そこはガード下の酒場だった。奴はマイルドセブン・クラシックに安物のリサイクル・ライターで火を着けていた。
「それで、あんたは禁煙区に行く方法を知ってるって言うんだな」
「知ってるというか、それが仕事だ。スカウトなんだ」
「スカウト?」
「つまり禁煙者の中から有望な人間をこっち側にスカウトするのさ。だって赤ん坊は全部向こう側にいるんだぜ、俺たちが向こうから人間をスカウトしなかったら、こっち側の人口はたちまち減少しちまうだろ。連中は、最初それが目当てだったんだぜ。完全分煙主義を連中が言い出した時さ。分煙してれば喫煙者側は自然消滅すると思っていたみたいだぜ。まったく汚いやつらさ」
「じゃあ、あんたたちスカウトが俺たちの社会を支えてるわけか。感謝感激あめあられだ」
「まあまあ。煙草産業の利益のためにやってるのさ。喫煙者が減ると利益が減るだろ」
「ってことは、この前、全銘柄が一斉に値上げされたのは喫煙者が減ってるからかい。もっと頑張って仕事してくれよ」
「俺たちの苦労を知ったら、そんなことは言えなくなるぜ。なにしろ、スカウトするためには向こう側に行かなければならない、つまり、煙草が吸えなくなるってことだぜ。それだけじゃなく、服も全部取り替えなきゃならないし、口の中も、肺もすっかり洗浄しなきゃならないんだからな」
「連中はそんなに厳しくチェックしてるのか? 肺の中までだって」
「いや、チェックしてる訳じゃない。匂いで分かっちまうんだ」
「犬を使ってるのか」
「いや、人間の鼻で分かるんだよ。少し向こうにいてこっちに戻ってくるとわかるぜ」
俺はこれを聞いて愕然とした。向こう側に行くことばかり考えていたが、そんなに簡単にこっちの人間だとバレてしまうとは思わなかった。こうなれば方法は一つしかない。
「いやあ、すごく大切な仕事をしてるんだな。感心したよ。煙草も吸わずに献身的に働いているなんてすごいよ」
「いや、煙草は吸えないけれど、ニコチンは摂れるんだ。体内に埋め込むんだよ。ドラッグ・デリバリ・システムってやつさ。ほら、糖尿病の人なんかが使ってるやつ。まあ、口から吸うのには代えられないけどね。禁断症状は押さえられる」
「そりゃあいいや。ところで相談なんだが、俺も仲間に入れてもらえないか。愛煙家としての意識に目覚めたって訳じゃないが、これ以上煙草が値上がりするのは御免だからね」
「奇特な人だね。だが、あんた、失業者じゃないだろうね。就職するようなつもりでいたんじゃ務まらないぜ。ま、どのみちテストがあるけどね」
「大丈夫だ。いつどこでテストを受ければいい?」
テストは簡単だった。なり手が少ないのだろう。
俺は会社に復帰した。松葉杖はなくてもなんとかなったが、少し脚を引きずった。それで、傷を理由に残業と飲み会を断って、夜はスカウトの訓練を受けた。他人を説得する方法を学んだり、喫煙者の癖を押さえる訓練を受けたりした。
その間にも俺はせっせと看護婦にメールを書いた。最初は女医に中継してもらい、ついにはメールアドレスを教えてもらって。そして感謝の贈り物をしたいからと言って、住所を知らせてもらった。
そしていよいよその日がやって来た。
俺は、スカウト・センターで二人のスカウトと一緒に準備室にいた。
「これが最後の一服という訳か」
「まあ、お前は初めてだから三日間だけだがな。俺たちは一ヶ月行ったきりだぜ」
「手間を考えると三日程度じゃ割に会わないんだが、新人の実地訓練だからな」
「三日だって大変なもんだぜ。煙草を吸いはじめて以来、禁煙なんて考えたこともなかったんだから」
俺たちは任務に就く前の最後の一服をゆっくりと味わって吸った。
それから、シャワールームに入って念入りに体を洗った。特に髪は良く洗う必要があった。宇宙飛行士か何かになったような気がした。
シャワールームを出ると下着とパジャマが用意してあった。着替えてから医局に行って肺洗浄と口内洗浄を受ける。肺洗浄は痛いか苦しいに違いないと思っていたが、実際にはそんなことはなく爽快だった。更に、手指の手入れ。その後、診察室で医者に会う。
ニコチンのカプセルを埋め込むというから、手術でもするのかと思っていたが、腕にちょっと太めの注射をしただけですんだ。違和感もほとんどない。
この時点で俺は既に煙草が吸いたくなっていた。訓練を受けていたから、煙草を探す素振りを見せたりはしなかったが、それでも吸いたいという気持ちが消える訳ではない。
最後に黒のスーツを着て準備は整った。
「なあ、そろいの黒のスーツってのはまずいんじゃないか」
「そんなことはない。俺たちはいわば喫煙社会の代表なんだからビシッと決める必要がある」
「そうかなあ」
俺は半信半疑ながら、先輩スカウトたちに従った。
驚いたことに、喫煙区と禁煙区の間には公式の通路があった。
「やつらは喫煙区から人間が来ることを拒んでいる訳ではない。煙草臭い人間が来ることを嫌がっているだけなんだ。実際は、煙草を吸っていない限りは、入っても大丈夫なことになっている。ただ、誰も話を聞いてくれない」
「密かに潜り込むんだとばかり思っていたよ」
「まあ、タテマエでは来ていいことになっているし、通路もあるが、連中だってスカウトに来るとは思ってないだろうし、そんなことを歓迎するはずがないよな。だから、ここは堂々と通るが、スカウト活動は目立たないようにやろうというわけだ」
「しかし、この通路を出た瞬間から監視されるんじゃないか?」
「だいじょうぶだって。連中は煙草の煙と匂いしか監視してないんだから。俺たちは何度も通ってるけど、何の問題もないし、何人もスカウトしてるんだから」
「ならいいけど」
「連中は煙草を吸わない喫煙者なんて矛盾だと思っているのさ。だから、煙草を吸わない限り危ないことにはならないんだ」
俺たちは通路の途中にあるエアロックを二つも通り抜けなければならなかった。これは馬鹿げたことだ。喫煙区側もスカウト・センターを出たところからずっと禁煙の区画になっていたのだから。
通路を抜けると派手な飾り付けをした小部屋があった。「ようこそ、さわやか禁煙区へ」と書かれたアーチ状の看板が天井から吊り下げられている。部屋の中には机が一つあって若い男が座っていた。
俺はちらっとスカウトたちを見た。どうも驚いているようだ。これまでと様子が違うのだろう。
「ようこそ。いらしゃいました」
若い男は満面に笑みを浮かべて近づいてきた。笑顔専門のタレントというのがいるとすると、こんな顔をしているのだろう。
「私どもでは移住を歓迎致しております。禁煙のお手伝いも出来るように準備して御座います」
連中もスカウトと同じようなことを考えているようだ。少しでも人間を引き抜こうというのだろう。もっともやり方は、スカウトよりずっと消極的だが。
スカウトたちが黙っているので、俺が話さなければならなくなった。
「あ、いや。俺たちは、あっちで禁煙してみたんだ。それで、うまく行ったんで、今度はこっちの街を見学しようと思ってね。その後で、いろいろ考えてみようと思うんだ、なぁ」
「それは素晴らしい。もう禁煙なさっていらっしゃる? それなら、ご自由に見学なさって結構ですよ。失礼ですが、煙草を持ち込んでいませんか? いえ、持ち込みが禁止されている訳ではないのです。皆様が、禁煙に耐えられなくなってうっかり煙草を吸うようなことになりますと、トラブルに巻き込まれる可能性がありますから。もし、吸いたくなったら必ず戻ってきてください。それから、見学だけでは分からないことも御座いますから、是非、私に説明させてください。まず、こちらにいらっしゃいますと、様々な費用がお安くなります。健康保険料も生命保険料もずっとお安くなります。喫煙区から移ってきた場合は割引は少なくなりますが、それでも以前よりは安くなります。マンションやアパートの賃貸料も安くなります。部屋が汚れませんし、火災の危険も減りますから。それから……」
「まず、先に見学してから説明を聞こうと思うんだが……。何といっても自分の目で見た印象が大切だからね」
「そうですか。わかりました。私がご案内致しましょう」
「あ、いや、うん、そうだね。知っている人に案内してもらった方がいいか」
俺たちは、案内人に従うしかなかった。予定していない事態だったから、案内人に従わないとしたら、怪しまれて何を質問されるかわからない。そうしたら、次々と機転を利かせて応答しなければならない。しかし、そんな訓練は受けていないし、素質もない。
「公園をご覧になりませんか。こちら側は子供が多いために、公園は大きく作ってあります」
案内人はそう言ったが、煙草も吸わずにただベンチに座っているだけの人が何人もいて異様な感じがした。彼らは一体何をしているのだろう。喫煙者なら、公園のベンチに座れば、必ず一服するはずだ。
それ以外の点では違いはない。植えてある木だって同じ種類だし、ハトもいる。地面に吸い殻が落ちていないで、その分ハトの糞が目立っているだけだ。仮に細かい違いがあったとしても、公園なんてろくに行かない俺に分かる訳がない。
ただ、公園が広い事は確かで、案内人はそこを横断するものだから、俺たちは三人とも無駄な時間を過ごしている気がして仕方がなかった。
「少し早いですが、お昼にしませんか。料理もこちら側の自慢の一つです。美味しい中華料理の店を紹介致します。中華料理はお嫌いですか? もちろん、お支払いの必要は御座いません。料理人は煙草を吸うなと言われておりますように、煙草は味覚を鈍らせます。こちらの料理人は、煙草を吸いませんから、鋭い味覚を維持しています。食べて頂けばお分かりになるでしょう」
店には半分ほど客が入っていた。昼になれば混雑するに違いない。俺たちはお茶を飲みながら料理が配られるのを待った。これも奇妙な感じがするものだ。
案内人は店の料理長がどこで修行したのという話をしていたが、俺はついがぶがぶとお茶を飲んでしまった。食事の前にしてはお茶の飲み過ぎである。煙草を吸わないで何かを待つということがいかに大変なものか思い知らされたのだ。
その分、料理は旨かった。煙草が味覚をどうとかいうより、単に料理人の腕がいいのだろう。特に豚肉をやわらかく煮たものは、抜群の味だ。お茶をがぶ飲みしたことなど問題にならない。
この店も中を区切って喫煙者にも食べさせればいい。だが、どういうわけか、食べ物屋は完全にどちらかの区域に属していて、二つの区域にまたがる店はない。あっても、ハンバーグ・チェーン店くらいだ。
「さて、午後は育児施設をお見せしましょう。喫煙区との最大の違いは、育児、教育関係で御座います」
「いや、結構だ」
俺はようやく案内を断るきっかけをつかんだ。それにこの男の考えも少しは分かってきた。
「俺たちは男だから、産院や保育所には興味がないね。あんたは、子供に会いたい母親や出産を控えた女性が来ることを当てにしていたんだろ。俺たちはそんなものには興味がない」
「しかし……。確かに私たちは女性がこちらに来ることを望んでいます。妊娠した女性が喫煙区で煙草を吸い、煙に囲まれて生活しているなんて、私たちには耐えられません。それで、そういう方がきっと連絡通路に現われるに違いないと思って、お手伝いしようとお待ちしていたのです。私は、実はボランティアなんです」
「君は、連絡通路に現われる女性を待ち構えていて、自分のものにしようと考えていたんだ」
「そんな、乱暴なことをするつもりはまったくありません」
「だが、禁煙の手伝いをすると言った。しかし、両区域間の取り決めでは、こちら側ではまったく煙草を吸うことが出来ないはずだ。もし、吸えばすぐに追い出される。じゃあ、どうやって禁煙の手伝いをすると言うんだ。手を握っていてやるとでも言うのか。そんなことは何のたしにもならない。禁煙の手助けになるものがあるとすれば、それは別の薬物だ」
「それがどうしたというのです。煙草よりもましな薬物はたくさんありますよ」
「だが、薬物の影響下では人は従順になり、他人の暗示にかかりやすくなる。君は好きなように女性を操ることができるはずだ」
「そんな、ひどい、そんなことは考えていませんよ。でも、もう案内はいらないというなら私はこれで失礼します」
男は怒ったように背を向けて去って行った。それとも逃げるようにだろうか。
「おい、新入り、すごいじゃないか」
「いや、当てずっぽうさ」
「おい、おい。ボランティアじゃなくて、政府の人間だったらどうするつもりだったんだ」
「政府の人間じゃないことは、はっきりしていたさ」
「どうして」
「中華料理店であいつが金を払った時、領収書をもらわなかったじゃないか」
「そうか。でも、悪いことしたような気がしないか。結局、昼飯をおごってもらっただけだし」
「なに言ってるんだ。次に来る時に邪魔になるだろ。それに帰る時はどうするつもりだったんだ」
「さて、邪魔者もいなくなったし、仕事に取りかかるか」
スカウトたちは、ゲームセンターに俺を連れて行った。そこが最初のスカウトの場だという。俺は見学させてもらうことにした。
見ていると、スカウトたちはそこに\bou{たむろ}している若者たちに声を掛けている。驚いたことにスカウトが声をかけているのは、どう見てもまともじゃない連中だった。喫煙区のゲームセンターにもそういう連中はいる。喫煙区の同類連中は他人から金を巻き上げたり、屑入れに火のついた煙草を投げ捨てたりする。
そのうち、一人が噛んでいたガムを床に吐き出した。ここでは、そういうやり方で自己主張をするようだ。俺に気がついたのか、やつら特有の目つきで睨んできた。俺は目をそらして知らないふりをした。
やがてスカウトたちが戻ってきた。
「どうだった」
「脈はある。こっちの社会に不満を持っている奴は多いからな。喫煙区の方が自由は多いから気に入るだろう」
「俺には、あまり素晴らしい人間には見えなかったが、どういう基準でスカウトしてるんだ」
「有望な人間だよ。喫煙区に来る見込みのある人間。将来、喫煙区に移転する望みのある人間」
「つまり、俺たちの区域に来る気さえあれば誰でもいいというのか?」
「そうは言ってない。が、俺たちにはノルマがあるんだぜ。人間の質ってのは簡単に決められるもんじゃない。こっちでは煙草が吸えないから、欲求のはけ口がなくて反社会的な行動をするのかもしれないだろ。一方、人間の数は簡単に数えられる。人間の質みたいな曖昧な概念では役に立たないんだ。数値化できて上司を説得できるのは、スカウトした人数しかないんだよ。スポーツ選手をスカウトしてる訳じゃないんだ」
「だが、俺はあんな連中に喫煙区に来て欲しくないぜ。あいつは俺を轢いた奴と同類だ。悪いがこの仕事は辞めさせてもうらう」
「おい、ちょっと待てよ……」
「心配するな。喫煙区にはちゃんと戻る」
俺は振り返らずに歩き去った。スカウトたちは追いかけて来なかった。
俺は看護婦のアパートのベルを鳴らした。
電話をかけた時には驚いていたが、なんとか会う約束をすることが出来たのだ。
彼女はドアを開けた。が、ドアチェーンは付けたままだ。
「やあ。あの時はありがとう」
俺は花束を差し出した。
彼女は恐ろしいものでも見たかのように、顔をこわばらせ、目を見開いている。いったいどうしたというんだ。俺はもう一度花束を差し出した。
彼女はようやく手を伸ばして花束を受け取った。ドアの隙間にこすれて、バラの花びらがこぼれ落ちた。
「その服は?」
彼女はそんなくだらない事を聞いた。その顔もオフになっていた。俺があの時見た顔はオンだった。それはきっと彼女が看護婦として重傷患者に接している時に見せる表情なのだ。今の表情はオフだ。普通のつまらない女の表情だ。
「この服がどうした。煙草の匂いでもするかい?」
「あなたはあたしを連れに来たの?」
そんなことも考えないではなかったが、今ではその気はなくなっていた。
「いや、ただお礼を言いに来ただけだ。ありがとう。直接そう言いたかったんだ」
「ああ、よかった」
「どうしたんだ。この服に何か意味でもあるのか」
「噂なんだけどね。この街で悪いことをすると、黒い服の男が来てどこかに連れて行かれるっていうの」
「そんな子供だましだろ。親が子供に言うことを聞かせるための」
「それが、実際にいなくなった人がいるのよ。同じ看護学校の卒業生でも、蒸発しちゃった子がいるの。その娘(こ)が蒸発する前に黒い服の男に会っているのを見たって別の娘が言ってるし。その蒸発した娘は、病院で睡眠薬をごまかして横流ししてたって噂もあるの。他にも何人も蒸発した人がいるし、みんな蒸発する前に黒い服の男に会っているらしいの。何かしら悪いことに係わっていたらしいし」
「警察はなんて言ってるんだ」
「喫煙区への移転届けが出てるから問題ないって」
「そいつらがみんな移転届けを出してるのか、そんな馬鹿な」
「でしょう。警察だって、本当の犯罪者が喫煙区に行ったなら引き渡しを請求するはずだし……。でも、じゃあ何かって言うと誰にも分からなくて、それでみんな怖がってるのよ」
一服してじっくり考えたい問題だった。だが、ない物はない。この看護婦が知っていることもそれ以上はなさそうだ。
「ありがとう。とにかく君には感謝してるよ。たとえ黒い服の男が来たって、君を連れ去ったりはしないさ。それじゃ」
俺はもうこっち側でやることはなくなった。喫煙区に帰って一服しゆっくり考えたい。俺はゆっくりと歩いて家に向かった。疲れていた。
俺はスカウト・センターに行って辞めたいと言った。正式な採用ではなく、試験採用みたいな形だったから特別な手続きもなかった。連中は俺が禁煙に耐えられなかったとでも思ったのだろう。たった一日で帰ってくるとは情けないやつだと。
だが俺は禁煙に耐えられなかった訳ではない。好きなように思わせておけばいい。むしろ、連中のヤニくさい匂いの方が耐え難いくらいだ。
アパートに戻る途中で、こっち側の匂いが随分ひどいものだとわかった。喫煙者たちが壁をつくり世界を二つに分けた理由も分からなくもない。
シャツのポケットにはハイライトが入っていた。リバイバルものだが俺は気に入っている。スカウト・センターで服を着替えた時からずっと煙草はあったのだ。それなのに、ポケットを探らないようにする癖がついていたので、気がつかなかったのだ。さっそく一本取り出して火をつける。
一息吸うとむせて涙がでた。無理に吸い続ける。
俺たちは喫煙区に閉じ込められている。ここは喫煙が自由な土地ではなく、喫煙者を閉じ込めるための場所だ。その上、禁煙者たちは犯罪者もこちらに送り込もうとしてる。ちょっと広い牢獄として喫煙区を使おうとしているのだ。鉄格子のない牢屋だが、禁断症状が鉄格子の代わりをしているのだ。
喫煙区は法律上は禁煙区と平等な土地だ。だから、面倒な裁判もなく犯罪の疑いだけで送り込むことが出来るのだ。そして喫煙者にしてしまえば帰ってくる心配はない。
禁煙者たちは、喫煙区にスカウト・センターをつくり、喫煙区の人間に犯罪的傾向のある人間を見つけだし、喫煙区に連れ出す仕事をさせている。煙草にまつわるイメージが反社会的な人間を引き付けるのだ。
まったくひどい世界だ。だが、俺に何が出来る。喫煙区には今後いやな連中が送り込まれてくるだろう。だが、禁煙区に行くのは問題外だ。犯罪者が来るのは困るが、犯罪者を追い出して澄ましているような連中とも暮らしたくない。
このことを告発したらどうだろうか。そんなことをするのは俺の柄じゃないが、そうする義務があるかも知れない。いや、そんなことをしたら殺されるかもしれない。やつらがどこまでやるかは分からないが、そんなことに賭けるのは馬鹿だ。
スカウト・センターの連中は俺がこの仕組みに気がついたことを知っているだろうか。スカウトの二人は気付いたかも知れない。だがたぶん、気付いていないだろう。あの二人は自分のしていることすら分かっていないのだ。
黙って何も知らないふりをしていれば、殺されることはないだろう。だが、知らないふりと本当に知らないのは違う。いつか信頼できる人間にこの情報を伝えることが出来るかもしれない。
俺はもう一本ハイライトを出して火をつけた。
ここはひどい世界だが、一本の煙草は世界と交換する価値がある。
おわり
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