藤沢すすむは民家の戸口で柱に寄りかかって煙草を吸っていた。藤沢は煙草が嫌いである。しかし、この仕事では煙草を吸わないわけにはいかない。ゆえに、藤沢はこの仕事が嫌いである。
辞めようと思ったこともある。いまでも辞めようと思っている。だが、ためらいもある。この仕事は科学の最先端と関わっているのだから。
家の中では軍服姿の日本兵が若い娘を強姦していた。藤沢は見張り役というわけだ。もっとも、見張りなんか必要ない。強姦を咎める者などいないのだから。それでも見張りを置いたのは、彼らの気が咎めたからか。あるいは、この男が見張りをするといって、強姦に参加しないで済むようにしたのか。
この男は多少なりともましであって欲しいと藤沢は思う。そのために藤沢の憑依対象になったのだと。実際にどういう基準で憑依の相手が決まるのか藤沢は知らなかったが、やはり、似た者になるのではないだろうか。
とはいえ、この男も時々家の中を盗み見している。日本兵に強姦される中国人を見て興奮しているのだ。男の感覚を共有している藤沢には男の興奮がよくわかった。そして藤沢自身も興奮していた。藤沢は強姦どころか、女性に声をかけることも簡単にはできないような人間であり、痴漢や強姦といった行為を憎んでいる。だが、その憎悪はそういう思い切った行動ができる男に対する嫉妬かもしれない。その手の映像ソフトを見ると、他の分野のものより強く興奮するのだから。
藤沢が今憑依しているこの男が直接強姦に参加しないで、外で見張りをしていながら中を盗み見る気持ちもわかる。
強姦よりも殺人の方が刺激が強いはずであるし、実際に人を殺してみたいと思っている人も少なくはないだろう。それなのにここに殺人ツアーが実施されないのは、やはり、戦争での殺人と嗜好的殺人では考えが合わないからではないか。この場所での殺人は他の戦闘中の殺人とは異なり無抵抗の人間を殺したとはいえ、どこに隠れているか分からない敵に対する恐怖が心の底にあってのこととも考えられるからである。
藤沢はまた煙草を口に運ぶ。藤沢の意志でそうしているのではなく、藤沢が憑依しているこの日本兵が煙草を吸うのだが。その点では藤沢とこの日本兵はかなり違っている。もっとも兵士には煙草が支給されるのだから、吸わないものはほとんどいない。それまで煙草を吸わなかった者でも、兵隊になれば煙草を吸う。
つまり、憑依するものとされるものは完全に嗜好が一致していなければならないわけではなく、似通っている部分が多ければよいということなのだろう。
だが、完全な嫌煙主義者である藤沢にとって喫煙者に憑依するのはかなりの苦痛だ。憑依している相手の感覚はほとんど全てそのまま伝わってくるからだ。日本兵が吸う煙草が気管をとおり肺に至る感覚も、ニコチンの作用が脳に広がる感覚も。
藤沢はこの仕事をやめようと何度も思う。が、藤沢にとって過去への旅をすることのできるこの仕事はやはり魅力がある。タイムマシンのように体ごと過去に来られるわけではないし、過去に来たところで自分の意志で何か行動できるわけでもない。ただ、過去の人間の体に憑依したようになってその人間の感覚を共有することが出来るだけだ。
それでもそんなことの出来る人間は限られている。つまり、時間憑依を研究する学者か、大金を払うことのできる客か、それを扱う会社に勤める人か。金もなく、もちろん最先端の研究をする頭脳などあるわけもない藤沢だから、なんとか会社にもぐりこめた以上簡単に辞めるわけにはいかないのだ。
幸いにも藤沢はこの憑依方式の時間旅行に向いているようで、研究者たちは他の憑依者よりも藤沢の方がよいデータが取れるのだという。憑依という方法は、日本人の精神構造に向いているのか、他の国よりも研究が進んでいる。何千年も続いてる天皇という神を崇拝する国だから霊的な現象が起きやすいのだという論文を書いた学者もいる。
その時、民家の中から逃げ出して来た娘が藤沢の肘をつかんだ。よろけたからか、助けを求めるためか藤沢には分からなかった。そんなことより――。
それはあるはずのないことだった。
藤沢はこの時間、一九三七年十二月十六日午後四時二十分に何度も来ているのだ。そして同じ日本兵に憑依し、何度も強姦の見張りをしてきた。だが、これまで一度も娘が逃げ出したことはない。
過去は変えられない。知ることが出来るだけである。
それは時間理論のセントラル・ドグマである。その制限があるために、過去の人間に憑依してその人の体験を共有するという時間旅行の方法が使われているのだ。このセントラル・ドグマについては時間旅行研究所での何ヶ月もの研修期間に何度も何度も徹底的に叩き込まれた。時間理論の数学的側面についての講義などはすっかり忘れてしまったが、セントラル・ドグマだけは心に焼き付いて離れない。『ドグマ』という部分が何か強力な呪文のように頭の中で響くのである。
だから何度も訪れているこの過去で新しいことが起こるはずがないのである。
それなのに、肘をつかんだ中国人娘は藤沢の目を見て言った。
「助けてください」
日本語だった。
どうしろというのだ。藤沢は単なる観察者であり、助けを求められてもどうすることも出来ない。そして、藤沢の憑依している兵士もこれまでと違った行動など出来ないのだ。娘に肘を触られたことに気付かないように、のんびりと煙草を吸っている。兵士が見ようとしないので分からないが、強姦しようとしていた男たちも娘を追いかけたり出来ないはずだ。これまで、逃げた娘を追いかけたことなどないのだから。
「逃がすな!」
思わず振り返ると、娘を強姦しようとしていた三人の日本兵がこちらに向かっていた。そして一人は銃を構えた。藤沢は娘を捕まえた。そんなことはしたくなかったのだが、藤沢の体が動いたのだ。
娘はもがいたが、藤沢の手は娘を放さなかった。
娘がつかまったので、銃を構えていた兵士も腕を下げた。
「さあ、こっちによこせ」
藤沢が娘を渡そうとすると、通りを走ってくる者がいた。
「カエレ。スグ、カエーレ」
その男はそう叫んでいた。金髪のみるからに西洋人である。その男が日本語で叫んでいるのだ。「カエレ、スグ、カエーレ」と。
その言葉が呪文のように作用して、時間憑依は解かれた。藤沢の意識は日本兵から引き剥がされ、現代へと戻っていく。クレームがつくだろうなと思いながら。
藤沢は硬いベッドの上で意識を取り戻した。あたりを見回す。時間旅行研究所の見慣れた部屋だ。客たちはまだ意識が戻っていないようだ。藤沢は慣れているだけあって意識の回復が早い。
藤沢はベッドの脇のボタンを押した。時間旅行中に異常があった場合に押すことになっているボタンだが、時間旅行中は意識が過去に行っているので、もちろんボタンは押せない。
研究所の職員は異常が起きたことに気付き、すぐに部屋に入ってきた。そして客の一人が死んでいるのを発見した。
五十嵐医師は嬉しそうに死んだ客の検査をした。明らかに喜んでいる。人の生死より、時間旅行中に起こった初めての死者を扱えることの方が重要なのだ。死んだ客は北村晃といい時間旅行は今回が初めてだった。
北村以外の客も静かにしていた。時間旅行が中断されて不愉快な思いをしたはずだが、人が死んでいる現場でクレームをつける気にはなれなかったようだ。
「死因ははっきりさせておく必要がありますよね。なにしろ、時間旅行中の死亡ですからね。しかし、解剖しないと明確なことはいえませんな。解剖しましょ。すぐに許可を取ってください」
五十嵐は医師免許を取ってから短い間病院に勤務しただけでその後は薬剤会社の研究所に勤めていたという。患者を治すことにはあまり興味がない様子だった。もちろん、死人を生き返らせることは出来ないにしても。いや、五十嵐は蘇生のための処置を全く取っていない。
五十嵐に限らず、この時間旅行研究所の社員はだれもがおかしい。事務室には神棚が設けられ、天照大神と書かれた掛け軸が掛けられている。これは所長の方針で神頼みしてでも時間旅行を成功させたいという気持ちだという。
時間旅行研究所といっても実際は株式会社であり、営利を第一の目的としている。テクノロジーを誇るために、会社に研究所という名をつけることが流行しているのだ。最先端の分野では法律が実情に追いつかない。そのため、法律が整備される前に荒稼ぎをし、特許を押さえるのだ。この北村の死体も解剖すれば時間旅行中の死について様々なことを教えてくれるだろう。もちろん、死因を調べて次の事故を防ぐという目的もあるが、事故を防ぐノウハウもまた重要な会社の資産となるのだ。
翌日、北村の死体が解剖され死因が判明した。心不全。北村は心臓に持病があったのだ。時間旅行とは何の関係もない病死と時間旅行研究所は発表した。
藤沢すすむの体験した過去の変化という出来事は、北村の死が原因となって一緒に時間旅行していた集団に精神の乱れを起こしたためと解釈された。その解釈を確認するにはあのとき一緒に過去に行った人たちの体験したことを聞く必要があったが、時間旅行研究所からの問い合わせに彼らは答えなかった。
時間旅行研究所で行っている時間旅行はまだ実験的なもので、行き先の過去もほぼ固定されていて変更できないし、人数も一度に五人までと限定されていた。少しでも利益をあげるために客を運んでいたが、まだまだ実験の域を出ないものであった。ただ、精神の時間旅行という方法から、実験段階であっても利用者の危険は少ないと考えられていたのだ。実験のためにも様々な人間を時間旅行させた方が豊富なデータがとれて望ましいという点もある。
藤沢すすむは過去が変動していたという体験が単なる精神の乱れだとは思えなかったが、時間理論のセントラル・ドグマに反することが起こったとも思えなかった。どちらともよくわからず釈然としないままに次の時間旅行の日がきた。
藤沢は時間旅行研究所の実験室のベッドの上に横たわり目を閉じて催眠音楽を聴いていた。体の下のベッドの感触が徐々に消えてゆき空中に浮いているような気がしてくる。しばらくすると音楽の調子が変わり藤沢も空中からゆっくりと下に向かって動いていくように感じる。落下するような急激な下降ではなく、下りの低速エレベータに乗っているような感覚である。その感覚は長いこと続くのでやがて下に向かっているのか上に向かっているのか分からなくなってくる。
藤沢の目の前に白衣を着た男が見えてきた。背景はなく男だけが虚空に浮かんで見える。髪の白い痩せた老人である。
「時間旅行に関する理論について説明して欲しいかね」
「いや別に」
時間理論については既に何度も聞かされているから藤沢はそう答えた。もう一度同じ事を聞いたからといって理解できるものでもない。それに、この男も藤沢の精神が作り出した幻に違いないのだ。幻覚から説明を受けても自分の知っている以上の事が分かるはずもない。
首を振りながら老人は消え、藤沢は再び浮遊感に浸る。
気が付くと藤沢は過去の日本兵に憑依していて、煙草を吸っているのだ。いつも同じ時の同じ日本兵に憑依してしまう。日本兵の感覚は煙草が脳に与える鎮静効果までそっくり伝わってきて、まるで自分が煙草を吸っているように感じるのに、日本兵の考えていることは少しも分からない。
そして日本兵による集団強姦の見張りをしていると部屋の中から逃げ出して来た娘が藤沢の肘をつかむ。藤沢は違和感を覚えながらも確かに以前にあったことだから何もおかしくはないのだと自分に言い聞かせる。
「助けてください」
娘の日本語を聞くと兵士は家の中に向き直り、追いかけてきた日本兵に向かって怒鳴った。
「おい、やめろ。やめるんだ! 恥ずかしくないのか。服を着ろ」
強姦していた日本兵は藤沢の方を睨みつけたが、娘が既に通りを走っていったのでズボンを脱いだまま追いかけるわけにもいかず渋々ながらしたがった。
藤沢はおかしい何かが間違っていると思ったものの何がおかしいのかわからない。日本兵がズボンをはき始めたので、藤沢は逃げた娘を追いかけた。自分の体のように動いている。憑依している男と同じことを考えただけなのか、本当に自分の意志で体を動かしているのか。走りながらでは深く考えられない。
地元の住民なら細かい路地も知っているだろうに、娘はただ真っ直ぐに走るだけである。藤沢の方が足は速い。もう少しで追いつける。
銃声が響いた。
娘が倒れる。藤沢は立ち止まった。
「見せしめだよ。逃げるものは殺す。なぁに、女ならいくらでもいる」
軍服をきちっと着た背の高い将校が銃口から煙の出ている拳銃を持っていた。
藤沢はその言葉を聞いた時には兵士の体から出ていた。これでは元の時代に戻ってしまう。客からクレームがつくだろうな。そう考えていたせいか、藤沢は兵士の体から出たものの元の時代には戻らず、幽体離脱をしたように体なしで過去に留まった。
動けるだろうかと試してみると、空中を移動するような感じがする。自分の体の感覚はないものの、視界が動くので自分が動いているように感じられる。
街の北の方はあまり空爆を受けていなくて、立派な屋敷や大きな病院があった。そこの屋敷の庭に大勢人が集まっていたので、藤沢は行ってみた。過去の人間の体に囚われている時と異なり、自由に動きまわれるのは素晴らしい感覚であった。
この状態でも依然として時間理論のセントラル・ドグマは守られている。今の藤沢は幽霊のような状態だから過去を変えてしまうことはない。自由に過去を観察することはできるが、うっかり過去を変えてしまいタイムパラドックスに陥る心配はないのだ。それを確認すると藤沢は安心した。
屋敷は西洋風の建物で広い庭があり、そこに大勢の中国人が集まっていた。空爆で家を焼かれた者や、家はあっても家にいたのではいつ日本兵がやってきて殺されるかわからないので逃げてきた者たちであった。また、武器を捨てた中国兵もいた。彼らには撤退命令が届かず、南京から撤退しようとした時は日本軍に包囲されていて脱出することが出来なかった。
そこは平和そうに見えた。庭は広かったがそれ以上に大勢の人がいたためにかなり混雑していた。着ている物も汚れ食べ物も少なかったが、日本兵がいないのが平和のしるしであった。
藤沢はしばらくそこに留まって中国人の様子を見ていた。そこは難民区と呼ばれている地域であった。南京に住むアメリカ人やドイツ人の住居が集まっている地区であり、住民の大部分が脱出した後では、中国人難民のために開放されていた。
藤沢は中国人の中に何人か西洋人が混じっているのに気付いた。その中には、以前強姦しようとしていた日本兵に「カエレ、カエーレ」と言った男もいた。難民区の中の中国人を保護しているだけでなく、難民区の外でも日本兵の暴虐から中国民衆を守るために働いていたのだ。
そこに日本兵がやってきた。
銃を構えて屋敷の中を調べてまわり、大人の男を一箇所に集めた。中国人は言われたとおり従った。日本兵が何をしようとしているのか分からなかったのだ。日本兵は中国人の帽子を取って頭を調べたり、手を広げさせて調べたりした。そして中国人を二つの集団に分けた。片方の集団は解散させたが、もう片方の中国人の手を縄で縛り、銃を突きつけて屋敷の外に連れ出した。
藤沢は連行された中国人たちの後を追って空中を浮遊して行った。
日本兵は堤防を超えて中国人を川原に連れていった。大きな川だった。中国最大の川、長江である。川原につくと中国人は一列に並べられて銃殺された。日本兵はその場で死体に灯油をかけて燃やした。川原にはそうやって燃やされた死体が何箇所にも転がっていた。
日本兵は中国人男子を皆殺しにしようとしているのだろうか。それは中国人女性をすべて強姦するような行動と関係があるのだろうか。
藤沢の頭に次々と疑問が浮かぶ。
日本軍は中国人女性を強姦して日本人との混血を生ませようとしているのだろうか。その子供たちに中国を支配させようというなら、中国人男性が邪魔になるのは理解できるのだが。
藤沢は高校時代に世界史を選択していたが、授業が遅れたため第二次世界大戦付近の歴史は教わっていなかった。どういうわけか、知り合いの中にも第二次世界大戦付近の歴史に詳しい人はいない。いや、戦車や機関銃などの武器には詳しい奴がいるのだが、当時の戦争の状況については本当にわかっているのか疑問を感じるのである。また、その後の歴史については現代史の授業で教わっているのだが。
もっとも歴史の時間自体が少ないので、授業が遅れなかったとしても詳しいことまで取り上げられたとも思えない。
「説明して欲しいかね」
再び白衣の老人が現れた。今度は霊体なのか半透明である。藤沢は混乱していたのでうなずいた。
「そこの川を見るがいい。時間の流れというものはしばしば川の流れにたとえられる」
藤沢は長江を見た。死体がかたまって流れていった。この老人は時間旅行について説明しようとしているのだな。以前に現れたときもそう言っていた。藤沢は勘違いに気付いたが、一度うなずいてしまったので途中で説明を止めるのは気が引けた。
「上流が過去で下流が未来としよう。人は川の中を過去から未来へと流されていくわけだ。時間旅行というのはこの川の中を泳ぐということになる。いいかな」
「えっ、時間旅行は不可能じゃないんですか。タイムパラドックスがあるし」
藤沢にとっても時間旅行について考える方が、日本軍による中国人の虐殺について考えるより楽だった。それでしばらく頭を切り替えた。
「何を言っているんだ。こうして過去に来ているくせに」
「いや、これは幽体として来ている訳で、つまり過去の情報は得られるが、過去を変えることは出来ないという時間理論のセントラル・ドグマがあるわけでして……」
「そういえば、そんな理屈を聞いたことがある。しかし、それは間違いだぞ。情報といえども実体と無関係ではない。そもそも量子論と矛盾するではないか。観測が波動関数を収縮させるのだからな。過去を観測できるということは、過去の波動関数を収縮させるということだぞ」
「えっ! そう? 過去の波動関数はみんな収縮してるんじゃないんですか」
藤沢はよく分からない量子論の用語を使ってみたが、用語は知っていても本質的に理解しているわけではない。
「観測だけが波動関数を収縮させるのだよ。過去だろうと未来だろうと観測されていない波動関数は収縮していない」
「でも、既に観測されて収縮した波動関数を再観測するなら問題はないと思うんですが」
「収縮済みの波動関数のみを選んで観測することなど出来ないのだよ。君が思っていたほど過去の観測は安全ではないということはわかったかな。つまり、過去を一方的に観察するのも時間旅行をするのも大した違いはないのだよ」
「しかし、タイムパラドックスが起こったら……」
「パラドックスが起こってもどうということもないのだよ。いや、パラドックスなどないというべきかな。そもそもパラドックスとは何かということを考えなければならないだろう」
「親殺しのパラドックスとか。つまり、過去に戻って自分が生まれる前に親を殺したとすると、自分は生まれてこないわけだから、過去で親を殺すことも出来ない。というようなのがパラドックスでしょう」
藤沢はパラドックスについて実はよく知っていなかったので、よく耳にする例を挙げてみた。
「そんなのはパラドックスでも何でもない。川の例えを思い出してみなさい。時間が渦を巻いているだけではないか。君は川の水が渦を巻くことをパラドックスというのかね?」
藤沢は混乱してきた。言い合いは苦手なのだ。いつの間にか煙に巻かれてしまう。
「因果律は、因果律はどうなります? パラドックスというのは結局因果関係の破壊なんですよ」
「これも因果律とは何かということを考えて欲しいね。まさか、親の因果が子に報いとか言い出すんじゃないだろうね。因果律というものがそんなに重要なものなら、物理学の法則の中に示されているんじゃないかな」
「さっきの親殺しのパラドックスを例にすると、親を殺せば自分もいなくなり、いない自分は親を殺せないということかな。物理学の法則についてはすべての法則に暗黙のうちに含まれていると思うよ、よく知らないけど」
「親を殺すと自分がいなくなるというのはおかしいね。自分が生まれなくなるというべきだろう。いいかね、ニュートン以降の物理学は基本的に解析的なんだよ。極めて短い時間や狭い空間を思考の基本に置いているんだ。エネルギーや運動量の保存法則も局所的に成立するのであって、大きな空間の中で保存されればよいというものではない。当然、因果律というものがあるとすれば、それも局所的に成立しなければならない。したがって、親を殺した瞬間に自分が消えるなどということはありえないのだよ。消えるとしたらその時、自分を構成していた物質はどうなるのかと考えてみたまえ。一方、局所的に成立する法則は大域的にも成立するのだがね」
「じゃあ、親を殺した後の自分はどうなるんです? タイムマシンで自分の時代に戻ると、親は生きているんですか、それとも自分のいない世界に行くことになるんですか」
「たとえば、このわしの使っている機械ならどっちにも行けるね。もっとも、親の生きている方の世界に戻るのでは親を殺した意味がないだろう」
「つまり、パラレルワールドとか多世界解釈とかそういうものですか。それなら多少納得できます。いや、待ってください。さっきのエネルギーの局所保存とかを考えるとどっちの世界にも行けるというのはおかしくないですか。自分のいない世界にその世界で作られたものではないタイムマシンが現れたりして……」
「いいかね、二つの世界は親を殺す直前の時点ではつながっているのだからそこから出発すればどちらにもいけるのさ。まず、タイムマシンで過去に来た方法を逆転させればもとの親の生きている世界に帰れる。これは映像を巻き戻すようなものだ。それから、いま殺した親の死体が腐ったり焼かれたりする時間に沿って進めば親のいない世界に行き着く。これは映像を早送りするようなものだね」
「しかし、親を殺しても別の世界には生きている親がいるというのでは何のために殺したのか分からない気もしますね」
「時間旅行が可能だということは納得したかね。すでに時間旅行をしているのだから納得も何もないんだがね」
「煙に巻かれたような気もしますが、一応納得しました」
「よし、では次の段階の説明を……」
死体のそばで何かが動いていた。藤沢は老人の説明を聞きながらも死体が気になっていた。焼かれた死体が放置されていることに不自然な気がして仕方がなかったのだ。
動いていたものは初めははっきりしない影だったが、徐々に形がはっきりしてきた。作業服を着た人間たちだ。この時代の人間のようには見えない。
「やつらが来たか……」
「やつらとは?」
「歴史修正主義者じゃよ」
歴史修正主義者と呼ばれた者たちは農薬の散布器らしきものを背負っていた。ピンク色の粉を死体の上に撒いている。
「何をしているんです?」
「南京大虐殺の証拠を消しているんじゃよ。あの粉に触れると骨も残らん」
「でもさっきの話では……」
「移動しよう、見つかると面倒なことになるかも知れん」
老人と藤沢は長江を離れて南京城内に入り、中山北路を下って外国人のいるあたりに来て止まった。
「ところで、お名前を伺っていませんでした。私は藤沢すすむといいます」
「田辺じゃ、田辺行雄。工学博士、八十六歳、独身」
「歴史修正主義者ですが、先ほどの説明ですと別の歴史を作るだけで修正はできないと思いますが……」
「さっきは話の途中だったんじゃ。いいかね、時間の流れが分岐するということは、合流することもあるということなんじゃよ。対称性というのは重要なメタ理論じゃからな」
「それではパラドックスが起きるのでは?」
「パラドックスは起きないんじゃよ。パラドックスが起きるような時は時間は合流しないからじゃ。パラドックスが起きない時だけ合流するんじゃよ。川の流れが渦の両側にわかれても、そのあと合流してひとつの流れになるようにな」
「そんな都合のいいことが……。時間が意志をもっていてパラドックスを避けるとでも?」
「いや、もちろんそうじゃない。こう考えて見たまえ。時間がどんどん分岐していくとたちまちのうちに非常に多くの世界が出来てしまうだろう。少なくとも、時間旅行一回毎に世界の数は二倍になることになる。しかし、その世界はほとんど同じじゃろうが。人の姿も地球の様子も。それは無駄というものじゃ」
「時間が意識を持って無駄を省き節約していると?」
「意識はともかく、無駄を省くというのは自然界の法則なんじゃよ。それが最小原理というものじゃよ。これもメタ法則のひとつじゃがの」
「時間が合流するということは二つの過去をもつ現在があるということになりますが」
「そうじゃよ、未来がいくつもあるように過去もいくつもあるのじゃ。その方が自然だとは思わないかね。ただ、複数の過去が同じ重みを持つというわけではない。時間の流れが分かれるときに同じ太さの流れに分かれるわけではないからな。未来にも過去にも本流となる流れがあるのじゃ。歴史修正主義者はその流れの太さを変えようと企んでいるわけじゃな。彼らに都合の良い歴史を時間の本流にしようとしているのじゃ」
「言いたい事はわかりましたが、どうして私に説明してくれたのですか」
「わしがせっかく時間に関する理論を構築したというのに誰も信じてくれないんじゃ。時間旅行中のあんたなら聞いてくれると思ったんじゃよ。長い話を聞いてくれてありがとうよ」
田辺老人は姿が薄くなって消えた。
「歴史修正主義者に気をつけるんじゃぞ」
最後にその言葉だけが聞こえてきた。
老人も消えたので藤沢は現代に帰ろうと思った。霊のことには詳しくないが、幽体離脱を続けていると肉体に戻れなくなると聞いたことがある。
どうやったら、現代に戻れるのかよく分からないので、田辺老人の言葉を頼りに時間の中を泳ぐようなつもりでもがいてみた。しばらくもがきつづけてから、本当に時間の中を移動しているのか不安になり、まわりの様子を眺めた。
中山路を中国人女性が走っていた。それを日本兵が追いかけている。そして別の日本兵が拳銃を構えて女を狙っていた。
さっきの場面だ。藤沢は現代に帰るつもりだったのに、過去に向かって移動してしまったのだ。泳ぐという言葉からつい流れに逆らって泳ぐイメージを思い浮かべたのだ。
藤沢は女の前に出て両手を広げた。霊体でそんなことをしても無駄かもしれないとは思ったが、女が射殺される場面をもう一度見るのは嫌だった。
女は藤沢を見て目を見開いた。女の足が止まったので、藤沢は思い切って女の腕をつかんで横の路地に引き込んだ。藤沢は女に触れることが出来ると思っていなかった。
二軒目の家に入って裏口から抜け、また別の家に入った。そこで藤沢は気が付いた。女を追いかけていたのは自分だということに。いや、見張りをしていた日本兵だった。女に危害を加えるつもりで追いかけていたのではない。拳銃を撃った男は追いかけてくるかもしれないが、捜す方が一人では簡単には見つからないだろう。
暖かく汗ばんだ女の手が意識された。その手を握っている藤沢の手も汗ばんでいて、気が付けば藤沢はもう霊体ではなくなっていた。今朝、時間旅行研究所に出勤した時の格好だった。元の時代から肉体を持ってきてしまったのだろうか。精神が長い時間肉体を離れていたので、肉体の方から飛んできたのだろうか。田辺老人の時間理論でもそんなことは起こりそうにないのだが。
元の時代に戻れるかどうかも怪しくなってきたが、今は自分の心配をしている時ではない。
「もう大丈夫だろう。たぶん」
藤沢が言うと女は日本語で応えた。
「ここはどこなのでしょう?」
「中国です。一九三七年十二月の、南京大虐殺の南京です」
「ああ、やっぱり」
女は絶望したように言った。
「どんどん悪い方に行ってしまうんです。電車の中で痴漢に触られていて。毎日触るんです。ひっぱたいても平気で。もうほんとに嫌になってしまって。逃げ出したい逃げ出したいって思ったら。こんなところに来てしまって。何度も襲われて。それも兵隊で。怖くて怖くて」
「落ち着いてください。もう大丈夫ですから」
藤沢は人を説得する話し方を使ってみた。あまり得意ではないのだが単位は取っている。おそらくこの女性は人に騙されない聞き方を身に付けていないだろう。
「もう大丈夫ですから、お名前といつの時代から来たか教えてもらえませんか。なにも機械を使わずにここに来たんですか」
「中野葉子です。昭和六十年から来ました。十万円金貨を発行した年です。前から嫌なことがあると魂が体を抜け出してどこかに行く癖があって。抜け出しても少しもいいところには行かないんだけど。じゃあ、機械を使ってここに来てるの? タイムマシンってやつ? どこにあるの、見せて」
「機械は元の時代にあるんですよ。私は藤沢すすむといって二一二三年の人間です。時間旅行研究所の観光ガイドをやっています。精神が元の時代を抜け出してきて、ここの中国人女性に憑依しているのですね。それなら戻れますよ、コツがあるんです」
「元には戻りたくない。また痴漢に襲われるだけだから」
「しかしここにいるわけにもいかないでしょう。他の時代に行くといっても私はここ専門で他は知らないし……。この時代で何かを変えたら痴漢がいなくなる可能性も少しあります。それなら、痴漢のいない状態のもとの時代に行けるはずです」
藤沢は女の子の前では根拠のない楽観論を口にする傾向がある。楽観論ではあるが、一度口にした言葉からは次々と考えが進んでいく。
「痴漢と南京大虐殺の因果関係はあるのだろうか。共通点はあるか、特殊な状況で現れる異常性だろうか。いや、特殊な状況であることを利用してのやりたい放題とも言えるが。共通点じゃなくて因果関係はないかなぁ」
「痴漢だって言ってもやってないと言い張るんです」
「それも共通点ですね。共通点は確かに多いですね。そうか、そのせいで中野さんがここに来たのかも知れません。偶発的なタイムトラベルにしても何らかの関連はあるはずですし……」
藤沢はそこで田辺老人が時間旅行の理論について話した時、実際の時間旅行がどのように行われるのかについて少しも説明しなかったことに気付いた。時間旅行研究所の憑依方式は昔偶然に精神の時間旅行をした人の残した記録をもとに開発されたと聞いている。その時間旅行研究所からの憑依先が南京ばかりなのは、最初の時間旅行者も南京に来たということなのだろうか。
「ここで殺されたり強姦されたりした人たちの怨みのせいかもしれませんね。あるいは、日本民族の血の中に隠されていた残虐性、猥褻性が南京大虐殺で解放されてしまい、その後も現れたままになっている可能性も」
「そもそもどうして南京大虐殺が起きたんでしょう」
藤沢がその問いに答えようとして考え込んでいると、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。藤沢は初めて赤ん坊の泣き声を生で聞いた。それは異常にうるさい声だった。
「赤ん坊が泣いている」
中野葉子もうなづいた。
二人は泣き声のする方に歩いた。日本兵に見つからないように注意しながら歩いたので少し時間がかかってしまった。突然、泣き声がいっそう大きくなった。泣き声はそばの家から聞こえていた。二人は窓から中を覗きこんだ。
ズボンを脱いで下半身丸裸の日本兵が赤ん坊を片手で持ち上げていた。藤沢は息を飲み込んだ。嫌な音がして赤ん坊は壁に叩きつけられた。日本兵はふんと鼻を鳴らしてから、ベッドの上の女にのしかかった。
藤沢は体がふらふらと動き出しそうな気がした。体が希薄化して霊体に戻りかかった。中野葉子が藤沢の手を握り締めたので、希薄化は止まった。二人は黙ってその場を立ち去った。
俺はあの男と同じ日本人なんだ。藤沢はそう思うと情けなくなってきた。藤沢が日本人であることを意識するのは、世界で活躍する日本人の姿を見たときでも、優れた短歌や俳句を耳にしたときでもない。
「まだ助かったかも知れないのに……。赤ちゃん、置いて逃げてきちゃった……」
「どうしようもないよ。もう、起こったことなんだ。過去の出来事なんだよ」
「でも、目の前で赤ん坊が殺されて母親が強姦されたのよ」
「仕方がないなぁ」
藤沢は再び時間の中を泳いだ。中野葉子もそれを見て中国人女性の体から出て藤沢とともに過去に向かった。中野葉子はコツを覚えるのが早い。霊体の中野は地味なパンツスーツを着ていた。痴漢を刺激するようには見えない。
先ほどの家に行くと日本兵はまだ来ていなかった。母親が赤ん坊に乳をやっていた。この赤ん坊がもう少しで殺されてしまうとは思えない。中野葉子が母親に憑依して赤ん坊を抱えて屋根裏に隠れた。
やがて赤ん坊を殺した日本兵が家の中に入ってきて家捜しをしたが、砂糖と酒を見つけて帰っていった。日本軍はありとあらゆる物資を中国から奪おうとしているようだ。藤沢と中野がほっとしていると、今度は五人の日本兵がやってきた。
日本兵たちは家の中を捜しまわった。一人がくんくんと匂いをかいで、女がいると言い出した。日本兵たちは銃剣で壁をついたりしていたが、ついに屋根裏に登ってきた。
中野葉子は日本兵がはしごを登ってくると怖くなって、母親の体から抜け出した。母親はびっくりして泣き出し、赤ん坊も泣き始めた。日本兵は母親の首を絞めて犯し、赤ん坊の口に布を押し付けて殺した。母親は五人の日本兵に次々と犯され最後には殺された。
駄目だ。藤沢と中野は絶望的な気持ちになってきた。もう終わったことなんだ、たぶん何度やってもこの親子は殺される運命にあるんだという藤沢に、中野はもう一度だけ親子を助けてと頼んだ。
藤沢と中野は再び過去に戻り、藤沢が鼻の利く男に憑依して女を見つけるのをやめさせた。日本兵が出て行った後、藤沢は戻ってきた。
「これじゃ駄目だ。またすぐに別の日本兵が来るに決まっている。夜になればもっとひどくなるだろうし。それも今日だけじゃない。確か、何ヶ月も続くんだ。とても防ぎきれない。それにこの親子だけ守ればいいというわけじゃないし」
藤沢がそういったのはもう二人が殺される場面を見たくなかったからだ。助けたいという気持ちがなくなったわけではないが、目の前で何度も殺されるところを見るのは、とてもつらかった。終わったことはどうしようもないじゃないか。藤沢はやけ気味に思った。いつの間にか南京大虐殺にかんする知識が増えていることも気にならなかった。田辺老人に南京大虐殺について教えてもらったと思い込んでいた。
「でも、この親子だけでも助けたい。たしか、街の北のほうに難民区があったはず。そこならここより安全だと思う」
藤沢は中国人がたくさん集まっていた邸宅を思い出した。あそこから中国人男性が連れ出されて殺されたのだ。そんなに安全な場所には思えなかったが、中国人が大勢いるから強姦は難しいかもしれない。そこまで連れて行けばこの親子に関わってしまった責任は果たせるだろう。
中野は母親に憑依して難民区に行くように勧めた。藤沢は憑依する相手とコミュニケーション出来ないのに、中野葉子にはそれが出来る。時間の中を移動するコツをつかむのも早かったし、頭のいい女性なのだ。そんな女性がどうして通勤電車で痴漢に会わなければらないのだろうか。もちろん、どんな女性だろうと痴漢に会う理由などないのだが。
藤沢と中野は少し先の未来を探ったり、過去に戻ってやり直したりしながら親子を難民区に連れていった。難民区ではアメリカ人やドイツ人が中国人難民の面倒を見ていた。病院には外科医もいると知って藤沢はかなり安心した。
「痴漢をなくせるかもしれない」
藤沢すすむはおずおずと言い出した。
「日本人が南京大虐殺を行ったことは事実だが、平和な時の日本人を見ているとそんなことをするようには見えないと思う。しかし、南京大虐殺を行った日本人の残虐性や陰湿さは平和になっても失われるわけではない。陰湿さの表れ方が痴漢という形に変わるだけなんだ。つまり、平和な時代に痴漢がいるということは日本人の民族的陰湿さを示している。それは戦争中であれば容易に大虐殺を引き起こす性質のものだろう」
「それでどうしたら痴漢をなくせるの」
「痴漢は南京大虐殺の証拠なんだ。あまり直接的な証拠じゃないけれど。間接的な証拠にはなると思う。状況証拠といった証拠もたくさん集まれば重要な意味を持ってくる。そういう状況証拠のひとつにはなると思う」
「そうかもしれないけど」
中野には藤沢の言おうとしていることが分からなかった。
「歴史修正主義者よ、聞いているか! 痴漢は南京大虐殺の証拠になるんだぞ。この時代の死体を消しているだけじゃ不十分だぞ。痴漢という証拠を消してみろ」
藤沢は大げさに叫んだ。
「そんな歴史修正主義者が聞いているかもわからないのに。聞いていても信用するとは限らないのに」
「でも俺が歴史を変えようとしてもうまく行かない。いや、うまく行ったとしてもやはり歴史は変えるべきものじゃないと思う」
「それで歴史修正主義者にやらせようというの」
「仕方がないよ」
「ま、いいわ。南京大虐殺も痴漢も簡単に消せるような事実じゃないと思うけど。痴漢も十分いやだけれど、痴漢は銃を持っているわけじゃない。鬱陶しいけど一人ずつ捕まえていくしかないのかもしれない」
中野葉子はそう言って消えた。藤沢すすむがあまり頼りにならないとわかって、自分の時代に戻ったのだ。
中野葉子は通勤電車の中にいる自分の体に戻った。もう痴漢は触っていなかった。駅で降りてしまったのか、それとも藤沢が言ったように歴史修正主義者が痴漢を消した世界に来ることが出来たのか。
中野は周りを見回したが、特に変わったところは見つからなかった。自分の服もバッグも朝家を出たときのままだ。電車の中を順に見ていくと中吊り広告の文字が目に入った。
――南京大虐殺はなかった。
ではやはり修正された歴史の方に来たんだ。その週刊誌の名前も出版社も聞いたことがない。
やがて列車は次の駅に到着し車内アナウンスが流れた。
「シンセン、シンセン。後ろ四両はドアが開きませんのでご注意ください」
乗客が一斉に降りようとする。中野は流れに従って歩きながら、不安感が心の中で広がっていくのを感じた。シンセンなんて駅は聞いたことがないし、通勤途中にもなかった。ここは知らない世界なのだ。
これからどこに行ったらいいのか。会社はどこにあるのか。家はどこにあるのか。何も分からなかった。人の波に流されて歩いていると、道端の標識が目に入った。
――痴漢に注意!
中野は最後の気力も抜けて道端に座り込んでしまった。
中野が消えると藤沢は一段と姿が薄くなった気がした。中野にはいい加減なことを言ってしまった。日本から痴漢がいなくなるためには、南京大虐殺などの事件を反省し、自分たちの持つ残虐性や陰湿性を自覚して、自分たち自身を制御するよう努める必要があるだろう。
中野は自分の時代に帰ったが、藤沢は帰れるかどうか自信がなかった。幽体離脱をしてからずいぶんと時間が経ってしまった。少なくとも、主観的にはかなりの時間が経過している。
このまま消えてしまうかもしれないが藤沢はその前に知りたいことがあり、歴史修正主義者の活動を追いかけた。
歴史修正主義者の時間旅行技術は完全に物質的なもののようだ。霊体である藤沢の存在は感知されていない。藤沢は妨害を受けることなく歴史修正主義者を観察することができた。
藤沢が疑問に思っていたのは、どうして歴史修正主義が南京大虐殺の証拠を消すのかということである。死体を消したり、報告書を燃やしたりするよりも、南京大虐殺そのものを起こらないようにする方が確実のはずだ。
だが歴史修正主義者は虐殺の現場には手を出さず、後から証拠を消すばかりであった。その理由を知りたいと藤沢は思った。そこになにか秘密があるように感じたからだ。
藤沢がずっと歴史修正主義者の活動を追っていると、やがて戦争末期にまで来てしまった。その頃になると歴史修正主義者の活動は南京大虐殺ばかりでなく、日本軍の阿片販売や、細菌部隊、従軍慰安婦といった方面にまで拡大していた。南京大虐殺と同じように証拠を消そうとしているのだ。
そして藤沢はひとりの日本軍将校に行き当たった。
もはや敗戦は確実という状況で、男は疲れを表情に出さないように努めていた。
「いいか、これは命令だ。日本軍が行ったすべての残虐行為の証拠を抹殺せよ」
藤沢はその将校の言葉を聞いてようやく理解した。歴史修正主義者はこの命令に従って行動しているのだ。この時から、歴史修正主義者が現れるまでの、おそらくは何百年という歳月に渡って、この命令は受け継がれ、実施されてきたのだ。親から子へと、あるいは新たな人員を補充し教育を施して、世代に渡って証拠の文書を抹殺し、虚偽の報告を作成し、偽りの論陣を張って。そして歴史の改変が可能な時間旅行の方法が確立されると、直接的に証拠の隠滅に動き出したのだ。
歴史修正主義者が証拠だけを消して、事実を消そうとしないのはそれが命令だからだ。それに事実を消してしまうと、証拠を消すために生まれた自分たちの存在を脅かすと考えた可能性もある。
戦争はまだ終わっていない。
証拠隠滅という作戦行動が終わっていないのだから。
藤沢はそこで気が付いた。歴史修正主義者は時間旅行の完成をただ待っていただけだろうか。日本軍の行った数々の残虐行為の証拠を消すためには、時間旅行ほど便利なものはない。時間旅行の開発そのものにも歴史修正主義者は関与しているのではないだろうか。
藤沢は時間旅行研究所の所長の顔を思い浮かべてみる。疑いは濃くなった。
藤沢は決心するともとの時代に向けて時間の中を戻っていった。たぶん、なにかやれることがあるだろう。戦争はまだ終わっていないのだから。