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はだかの起原について

島泰三を過小評価していました。 この本はアクア説を否定して人類進化に別の説を立てていると思っていたのである。 全く違う。この本で否定しているのはアクア説ではなくダーウィンなのである。 詳しくは後で述べるが、実はこの言い方ですら、まだ不足しているのだ。

この本は「はじめに」と十二の章それから「おわりに」と「あとがき」引用文献、 資料という構成になっている。これを一つずつ見ていこうと思う。 掲示板なら長文注意というところである。

引用文中の太字は一ヶ所を除いて、引用者である私が強調したものである。

はじめに

ここでは著者が「はだかの起原」について考えることになった動機が述べられている。 ここで著者は台風の日にニホンザルの行動を追跡した体験を語っている。 それまでの説ではニホンザルの群れは暴風雨の時には動かずに、洞窟や深い森の 避難場所でじっとしていることになっていた。しかし、この説が実際の観察に 基づいているかどうか疑問に思った著者は、自分で観察してみようと思い、 実行に移す。その結果、著者はニホンザルが台風の中でもふだんとまったく 同じように採食し、遊んでいるところを観察する。

このことから、著者はニホンザルの毛皮が台風程度の雨や風をものともしない 非常に優れた防寒防水機能を持っていることを知り、どうして人間がそんなに すぐれたものを失ったのかと考えるようになるのである。

立派な動機、そして既存の常識を疑い、実際に観察するという学者としての 素晴らしい態度を表している。ように見える。しかし、一回だけの観察であり、 ニホンザルだけの例であるということを忘れてはならない。私は、 鹿などは台風を避けて洞窟に避難するという話を聞いた。これも実際の観察 に基づかない話かもしれず、あるいは、避難しないのはニホンザルだけかも知れない。 もしかしたら、この時の台風があまり強いものではなかったのかも知れない。

第一章 ヒトの裸の皮膚は自然淘汰で生じたはずはない

これは著者の言葉ではなくて、アルフレッド・ウォレスの言葉を著者が引用した ものである。もちろん、著者はこの言葉に賛成しているから引用しているわけだが。 では、著者自身の考えを引用しよう。

 ウォレスの衝撃的な一言に ついて述べる前に、どうしてもダーウィンに触れなくてはならない。 私はダーウィンの進化論を常々疑っていた。最大のポイントは「最適者生存」 (The survival of the fittest)というセオリーにあった。これは論理としては 同語反復である。p17

まず、「同語反復」という ことは「当たり前のことを言っている」ということであって、 「間違ったことを言っている」ということではないはずである。 二つめは、一般には「最適者生存」というよりは「適者生存」と言われる。 最上級といえば最上級だが、英語では「one of best」というような言い方があり、 「最適者」という日本語にすると印象が強すぎるのである。 三つめは、ウォレスと著者の立場が異なるということである。 ウォレスは「ヒトの裸の皮膚」に限定して「自然淘汰」であることを否定している のだが、著者は「ダーウィンの進化論を疑っていた」のである。

この本は主に「ヒトのはだか」のことについて論じている。 しかし、著者は「ヒトのはだか」についてはダーウィンの進化論が 例外的に適用されないと言っているのではない。 著者はダーウィンの進化論が全面的に間違いだと主張しているのである。

 このダーウィンの文章の問題点は、 水中生活者には毛皮のものも、裸のものもいるという両極端の事実について、 なぜそういう違いが起こるのかについてしっかりした考察をしないところにある。 水中の裸は『滑るように進むのに都合がいい』と言っておきながら、 それに続いて起こる寒さにどう対応するのか、という疑問には、脂肪層で 答えている。そこに毛皮のあるアザラシやカワウソを入れるので、読者はすべてに 答えていると思い込むのだ。
 こういう文章を作る人は、こういう文章に慣れているので、 いつも同じような言いぬけをしているはずだ。p29
 「ちょっと、ちょっと待ってください」と雑賀さんが割って入った。 「他の人ならいざしらず、相手はダーウィンですよ。偉大な思想家として 評価が定まっているダーウィンが、そんなことをやるはずがないじゃないですか?  これは何かの間違いです。ダーウィンは例証を挙げただけでしょう」
 しかし、ダーウィンはこうして論理の破綻を修辞ですりぬけている。 こういうことをやる人は、いつもやる。p29

ちなみに、ここで引用されているダーウィンの著作は「種の起源」ではなく、 「人類の起源」の方である。「人類の起源」についてはダーウィンの言葉をそっくり そのまま受け入れる現代の進化論者は少ないであろう。 「人類の起源」では個々の説明よりも人もまた進化の産物であって、 例外ではないという主張が重要である。

この章はダーウィンの「人類の起源」の批判であった。 しかし、著者は「人類の起源」だけでなく、 ダーウィンの進化論の中止をなす「自然淘汰」概念を否定しているのであった。

第二章 ダーウィンは変だ

ここでは「ヒトのはだか」という問題を離れて、 ダーウィンの進化論に対する批判を強めている。 ところで、実は第一章から登場しているのだが、 雑賀という人が著者の対話の相手をつとめている。

ダーウィンはなぜ例外を説明しようしないのか

第二章の中の一節である。ここで雑賀青年が登場し次のような疑問を口にする。

「なぜ、ダーウィンは例外を説明しないんですか? 裸なのは水中生活者だからだと 説明して、アザラシやカワウソはどうかというと、これは例外だと。なぜ例外なのか と、どうして説明しないのですかねえ。たとえば、寒い海では毛皮がいるとか、 ときどき海から出るから毛皮が必要なのだとか、いくらでもできると思うのですが、 どうしてそういう説明をしないのでしょうね」p39

これに著者が答えて

 たぶん、『やりたくない』ということでしょう。ダーウィンほどの人である。 説明出来ないわけはない。私が考えついたほどの説明は、考えているに決まっている。 それでもやらないのには、わけがある。それは『やりたくない』ということだ。
 なぜなら、水中生活では泳ぎ回るためには裸がいい、と言い切ってしまっている。 まり、裸の皮膚は水中適応タイプなのだ。だから、毛皮の水中生活者は適応していない はずのものが生存していることになるので例外だ。例外として扱って、説明しない ほうがいい。下手に説明すると、どんどん説明を重ねなくてはならなくなる。 古来、大物、大企業の反対者への対応は、無視なのである。対応しない ことで権威を保つという方法がある。p40

雑賀青年はこれについて

「そうですねえ。ダーウィンは『最適者生存』 で大物になっていますからねえ」p40

と答えている。

確かにダーウィンは大物である。 できればどうして大物になったのかも考えてほしかった。 ここで注目するべきは、 「例外を説明しなくてはならない」という考えである。これは先に述べた 「最適者生存」という訳からも来るのかもしれないが、 つまり適応の方法はただ一種類しか 存在しないと著者は思っているようである。現代的な考え方では 「突然変異と自然淘汰」によって生物は環境に適応していく のであるから、適応の仕方は一つではない。しかし著者は「最適者生存」と訳し その文字を文字通りに解釈しているようである。 そのことは以下の部分に明白に記述されている。

「最適者」という客観的には無内容な概念は、「最適者」の内容について 社会的同意があるときだけ、実質的な意味をもつ。花なら「大きい」とか 「美しい」とかである。泳ぎ回る「最適者」に毛のあるものとないものとの 二通りの道があったり、熱帯の炎熱の「最適者」に毛のないものと毛のある ものと部分的にあるものなど、いくつかの道があるとすると、「最適者」の 意味が空洞化する。「最適者生存」を語る場合は、その「最適者」は一通り であり、それ以外は例外として関係ないという態度を取る以外はない。p40,p41

ここでは「最適者」の意味以外にも注目すべき点がある。それは種に対する淘汰か 個体に対する淘汰かということである。ダーウィンは種内での個体に淘汰が働くと 考えていたわけだが、この著者には個体に対する淘汰という考えはみられない。 「個体に対する淘汰」という概念がないから、異なる種がある問題に適応するために 同じ方法を取らなければならないという考えになるのではないだろうか。

ついでに、かつ念の為に書いておくと、「適者」というのは「最」 がつくかどうかに関係なく環境に適応している という意味であって、人間の価値とは関係ないのである。 だから同語反復と批判されるわけで、人間の価値で決められるなら同語反復ではない。

この節でもうひとつ重要なことは、 例外は説明されなければならないということである。 どういうことかというと、たったひとつ説明不可能な例外が存在すると、 その学説は全く成立しないということである。それが著者の主張のようだ。 それが、この本が「ヒトのはだかの起原」について論じていながら、 ダーウィンの進化論を全面否定するという結論になる理由のようである。

ダーウィンの進化論を支持する証拠がどれだけ多いかということは、 この著者の例外がすべてを崩壊させるというような考え方の前では、 問題にならない。

次の節では「時代的背景」という題で、ダーウィンの進化論が受け入れられたのは、 (その正当性によるものではなく)当時のイギリスの時代的背景によると言っている。 確かに、時代的背景もあったかもしれない、当時から「進化」と「進歩」を同一視 するような進化論に対する誤解はあったようだ。

さて、ここからが二章の重要なところである。 常識ある読者は、著者はヒトについてのみダーウィン説が成立しないと言っている に違いない、杉並太郎がいつものように大げさに書いているだけだろうと 思っていることだろう。その次の節「増加の幾何比の幻想」から が、問題である。

ここで著者は自然淘汰の根拠である「生物がほとんど例外なく多産であり、 実際に生存できるよりはるかに多くの子を生じることである」というダーウィン の主張に反論する。著者は「人間、チンパンジー、トゥース・カープという魚、 インドゾウ、プヤ・レイモンディという植物、プリスルコーンマツ」などの 例をあげ、また哺乳類には一産一子という例が多いと言って、 「これが多産というならなんだって多産だ」と主張する。これを聞いて雑賀青年は 素直に納得するのである。つまり、 著者は「生物は多産であるとはいえない」というのである。 ここにも著者の「例外はすべてを崩壊させる」という考えが見られる。 (注釈を入れておくと、ここで著者がプリスルコーンマツについて言っているのは 樹齢が四千六百年で若木が四十八本育っているから、百年に若木一本であるという ことである。)

ダーウィンに対する直接的な反論は、「種の起原」からダーウィンが象について語っていることを引用してから始まる。

「象はあらゆる既知の動物中、最も繁殖の遅いものと認められている。 で、私は少し骨折ってその自然増加の蓋然的最小速度を概算して見た。 象は三〇歳で生殖を始めて、九〇歳までこれを続け、その間に六匹の 子を産んで自分は一〇〇歳まで生存すると仮定するのが最も安全であろう。 もし、この通りであったとすれば、七四〇年ないし七五〇年後には、最初の 一対から出た一九〇〇万近くの象が生存することになる」p48

すると雑賀青年はこのダーウィンの主張を称える。そして著者の答えは

 しかし、これが計算上だけの数だということは、むろん皆知っているわけで、 ダーウィンがこの計算結果を挙げたのは、それほどの繁殖能力が生命には あるのだという例証に過ぎない。だが、ほんとうにそうだろうか?
 この無限の数に増加する生命のうちからわずかな個体しか残らないのは、 『自然淘汰』よるのだというダーウィンの理論は、たったひとつのファクター で崩壊する。p48,p49

と著者がいうと、雑賀青年はすかさず
「どういうファクターですか?」
 著者はもったいぶってこう答える
「それは食物です」

ここでコマーシャル。じゃなくて、次の節になる。

「増加の幾何比」は食物で崩壊する

この節は非常に重要なので全文引用したいくらいなのだが、 俺が疲れるので一部のみ引用する。 最初は前の節からの続きですね。

 ダーウィンが挙げた仮想のゾウ家族に、たったひとつのファクターを打ち込んで みる。「それは一家族が現在生活している領域は、一家族が生活するだけの食物( 水も含むとして)しかない」という条件である。p49

この条件を付け加えると、ゾウの数は増えない。そして著者は続ける。

 こうして、「自然淘汰」理論が数字の上の根拠となっていた個体数の幾何級数 的増加の手品を取り払うと、 ダーウィンが言っているのは「微小変異の蓄積仮説」 による「漸進進化」理論というものに縮んでしまう。
 「ニッチ」あるいはその動物が生きてゆくための食物の限度はダーウィン進化論を 根底から覆す力を秘めている。p51

ここでちょっと検討してみましょう。「縮んでしまう」ということは、 ダーウィンが言っているのは「漸進進化」ではないと著者は思っているわけです。 著者は縮む前の説に対して反論していて、かつ、縮んでしまった「漸進進化」説は 反論する必要もないと考えているようです。

つまり、普通の進化論的考えでは、食物がないために死ぬのも「自然淘汰」 なのですが、この著者はそうは思っていないのです。それを推理すると、 「自然淘汰」の結果「最適者」が選ばれて、種が「進化」するとこう考える。 つまり、「自然淘汰」が起ったならば、「進化」も起るはずである。 しかし、一頭のゾウが食物がなくて死んだとしても、そこでは「最適者」は 選択されていないし、「進化」も起っていないように見える。したがって、 食物による死は「自然淘汰」ではない。私の推理が合っているかどうかはともかく、 著者はダーウィン説を「漸進進化」説ではないと思っていることは確かであろう。

ダーウィンは数の増加を抑える要因を知っていて

次の節ですね。私の推理(の一部)を裏づけることを著者は言っている。

 この食物の問題、食物の有限性、動物たちが占めなくてはならない生態系の中の 「ニッチ」がダーウィンの「自然淘汰」を打ちのめし、崩壊させる。 有限の食物というこの大前提があるかぎり、ゾウが無限に増加するという想定は 意味を持たず、無数の子孫を生存可能な数にまで削減する「自然淘汰」の必要など なくなるからである。
 生まれてくる子には、有能なものもいるだろうし、無能なものもいるだろう。 しかし、そこにすでに生活している両親がいる限り、成熟した子供はそこから 出るしかない。
 こうしてみると、ゾウの子供たちの運命に「自然選択」は無縁である。p53

著者は「有能な」子が選択されるのが「自然選択」であり、そうでない以上、 「自然選択」ではないと言っているようにみえる。

この章で著者は「自然淘汰」または「自然選択」という概念が誤りであることを 論証したのである。

第三章 ダーウィンは裸の起原を解明できない

この章ではふたたび人類の話にもどるわけだが、その前に、ちょっとだけ 前の続きが書かれている。そこに著者の考えがはっきりと書かれているので 引用する。

「でも、両親のもとから出て行った成熟したゾウたちの運命には、自然選択が 働くのじゃないですか?」と雑賀さんは食い下がる。「出て行った場所では、 限られた食物資源と生活場所をめぐって競争が起るから、 優秀なゾウしか生き残れないわけでしょう?」
 それまでゾウがいなかった場所へ踏み込むのは冒険家であり、開拓者である。 しかし、そのフロンティアも無限ではない。世界中にゾウが広がった結果として、 同じ食物の限界にぶつかる。この限界を超えるひとつの方法がある。 新しい食物の開拓である。
 例えば、マダガスカルのコブ牛たちは枯れた草を食べることができないと 言われているが、ここに枯れた草を食べることができる牛が現れたら、マダガスカル の中央高地、日本列島全体に等しいほどの広大な面積を占めるほとんど無人の草原は、 大牧場に変わるだろう。そのように、新しい食物を生態系の中から開発し、 自分の体もそれに適応して変ったとき、まったく新しい生命が生まれる。それこそが、 「種の起原」だ。p56

これが著者の考えである。 残念ながら、これだけではまだ詳しい理論的構成はわからない。

 最近のネオダーウィニストたちは、最適者概念のこの頼りなさを知って、 結局はどれほどたくさんの子孫を残せるかを最適者概念に繰り込んで成功したと、 自慢している。しかし、それも「自然淘汰」理論の枠内の変更でしかない。 ある理論の枠内で改良をしようとしても、その理論の根本的な誤謬や根本的 弱点は解消されない。p57

著者はダーウィン流の進化論だけでなく、ネオダーウィニズムも否定しているということが示されている。

このあと進化論全般を離れて、「はだか」の話に戻る。 ここでまた著者はダーウィンの 「人類の起原」について、性淘汰を批判している。まあ、それはいい。 ダーウィンが性淘汰で「はだか」を説明したのは間違いだろう。しかし、 その批判の仕方は正しいだろうか。ダーウィンの批判として著者は次のように 言っている。

広く人間全体を見れば、あごひげのあるなしは個人的な特徴でしかない。私が あごひげを伸ばし始めたのは、三〇代の初めに中国に行くことがあって、むこうでは ヒゲのある人が少ないから、伸ばしていると尊敬されると聞いて始めたくらいである。 つまり、あごひげ程度は性差と言えるかどうかあやしいものである。p63

ヒゲを剃ると、ヒゲはないということになるのだろうか。 この章で著者は性淘汰によって、人間の無毛性を説明したダーウィンを批判している のだが、しかし、そこで止まらないのがこの著者の推論のずば抜けたところである。 「性淘汰」という概念が哺乳類には無効であることを著者は論証する。

 性淘汰については無数の実例が挙げられるが、そのほとんどが昆虫や鳥類である。 一三章中二章が哺乳類、二章が人間である。しかし、生理的なレベルが異なる 動物群を同じ考察に加えることは、今でもいろいろな学者がやっているが、 いつも大いに問題がある。p71,p72
 第二、仮説はその適用範囲をはっきりと限定しなくてはならない。 仮説はまず、少数の事実を説明することから始まる。それができてから、 他の多数の事実の説明に向かわなくてはならない。しかし、「自然淘汰」 理論は、そのようには作られていない。最初に原理があり、そこから事実を 説明しようとする。原理が曖昧であればあるほど、事実をそれによって 説明することは簡単である。「性淘汰」理論は、 この曖昧さを最大限利用した仮説 としか言いようがない。それは「自然淘汰」理論も同じである。p72
 第三、異なった分類群の動物の行動の原理を人間に適用することは、 まったく意味がない。生理的生化学的要求の異なる動物群の間の行動の意味を 同じ基準で説明しようとするのは、無謀である。
 たとえば、「刷り込み」を人間にあわせて説明しようする無意味を知れば、 明らかだろう。孵化した最初に出会ったものを母親と思って従うという鳥の、 しかも特定の種の行動を人間にあてはめるのは無意味である。p72,p73

仮説の適用範囲をはっきり限定しなくてはいけないという説はすばらしい。 そして、刷り込みは人間には該当しないというのはまったくその通りである。 だからといって性淘汰が人間あるいは哺乳類に適用出来ないと考えるべき根拠も またない。

しかし、こうしてみると著者が性淘汰が人間に適用できないといっているのは わかるが、哺乳類に適応できないとは明言していない。分類群という意味では 人間も哺乳類ではあるが。

第四章 裸の獣

ここでは裸の哺乳類の例を挙げている。例外があるとすべてが崩壊するので、 著者の列挙には例外がない。

これらの哺乳類には共通点をもつ分類群がいる。クジラ目、海牛目は完全な水生で、 一生を水中で過ごす。こういう哺乳類には毛がない。また長鼻目、サイ類、カバ類と いう巨大陸生哺乳類も毛がない。それには例外がない。p81,82
逆に、アザラシやカワウソのように陸に上がることがある一時的水中生活者には 必ず毛があることが、完全な水中生活者での裸の利点を示している。p82

極めて明快である。ここで重要なのは、一時的水中生活者と完全な水中生活者は 本質的に異なるという点を主張しておくことだ。一時的水中生活者は 水中にまったく入らない哺乳類と同じだという主張があとで生きてくるのである。

この後、体重と熱の発散の話が出てくる。 1トンの生物と10kgの生物を水の入った水槽に例えて、大型生物では熱の発散が 問題となるという主張である。その主張自体は、目新しいものではなくて、 恐竜絶滅の原因としても挙げられている説である。しかし、1トンの草食動物と 10kgの肉食動物では両端しかない。たった二つでは例が少なすぎる。

体重(kg)11,000
立方体の一辺(cm)10100
餌のカロリー12,50012,500,000
表面積(平方センチ)60060,000
放熱量(カロリー)12,4801,248,000
上昇温度(度)0.0211.25
上昇後の体温(℃)36.0247.25

途中はどうなるか計算してみよう。 哺乳類補間計画である。途中を計算するためには、体重によって餌の量がどうなるかを知る必要がある。 著者の例では、肉食動物と草食動物なので餌の質が違うが、餌から摂取するカロリーは 10kgの動物が12,500カロリーで、1,000kgの動物が12,500,000カロリーなので、 体重に摂取カロリーが比例すると仮定していることは明らかである。 問題なのは草食か肉食かということではなくて摂取カロリーだから、 草食肉食の区別なしに摂取カロリーだけから計算してみよう。 こういう計算は表計算ソフトを使うと簡単に計算できるので、 誰もが知っている表計算ソフト「ロータス123」を使って 計算してみた。結果は以下のとおり。

表A.仮想的動物(摂取カロリーは体重に比例するとする)
体重(kg)13510501001000
立方体の一辺(cm)1014.417.121.536.846.4100
餌のカロリー12,50037,50062,500125,000625,0001,250,00012,500,000
表面積(平方センチ)6001,2481,7542,7858,14312,92760,000
放熱量(カロリー)12,48025,95936,49257,927169,380268,8731,248,000
上昇温度(度)0.023.855.206.709.119.8111.25
上昇後の体温(℃)36.0239.8541.2042.7145.1145.8147.25

この表からわかることは体重5kgから既に体温が40度を越えてしまう ということである。そして体重50kgの仮想的な生物は体温が45度にもなってしまう。 これで人間がはだかである理由は説明される。 謎はそこではなかったのだ。問われるべき謎は、 他の動物はなぜ裸にならないのかということである。

しかし、食事から摂取するカロリーは本当に体重に比例するのであろうか?   そこを確かめる必要がある。ぐぐってみると、 「生物が必要とする食物は、体重の4分の3乗に比例する」 という記述が見つかった。 (ここである)。 では再度計算してみよう。

表B.仮想的動物(摂取カロリーは体重の4分の3乗に比例するとする)
体重(kg)13510501001000
立方体の一辺(cm)1014.417.121.536.846.4100
餌のカロリー12,50028,49441,79670,293235,038395,2852,222,849
表面積(平方センチ)6001,2481,7542,7858,14312,92760,000
放熱量(カロリー)12,48025,95936,49257,927169,380268,8731,248,000
上昇温度(度)0.020.841.061.241.311.260.97
上昇後の体温(℃)36.0236.8437.0637.2437.3137.2636.97

これだとまったく体温は上がらない。これは何も新事実を示しているわけではない。 実のところ表Bで体温が上がらないのは当たり前なのだ。なぜなら、 「生物が必要とする食物は、体重の4分の3乗に比例する」 という法則は、「生物が必要とする食物(のエネルギー)は、放熱によって失う熱を補うために使われる」ということから出てくる法則だからである。(ぐぐったところに 生物と書いてあったけど、ここは哺乳類の方が正しいだろう)。 ちょっと考えてみれば分かるが、 大型化の結果体温が上がりすぎるというなら、裸になるよりも 摂取カロリーを減らすほうがずっと簡単である。

確かに大型の生物では熱が溜まりやすく、小型の生物では熱が逃げやすいという 考えは正しい。これはベルクマンの法則といって、動物学ではよく知られた法則であり、寒いところに生息する動物ほど体が大きいことを説明している。

一方、体積と面積の関係、つまり体積は三乗で増えるが面積は二乗でしか増えない という関係は大型生物に確かに問題をもたらす。それは体重を支える骨の強度が その断面積に比例するという点である。一方、浮力は体積に比例する。 そのために水に入った獣は体重増加に対する制約が 緩くなって大型化する傾向があるのだ。

上の二つの表をみればわかるように、、 1トンを境界に熱の問題が発生するという結論は明らかに間違いである。 しかし、私は著者が読者を欺くためにわざと極端な二つの例を挙げたとは思わない。 人の人格を貶めるような思考は、そのような思考をする人の人格を示しているだけだ。 著者は読者を欺こうとしたのではない、著者は 単に立方根の求め方が分からなかっただけだろう。 (実は立方根の求め方を知らなくても、体重ではなく立方体の一辺を基準にして 表を作ればよいのだが、そういう風に考え方を変える方が立方根を求めるよりも 難しいかもしれない)

面白いのは、

 ゾウアザラシやトドでは1トンを超える大型のオスにはほとんど毛がないが、 より小型のメスには毛がある。1トンを境界線にするこの関係は、1トンを境に オス・メスの体の大きさが異なる哺乳類でも成り立つところが面白い。p88

と言って置きながらそのわずか2ページ後では、 ところが、大型の動物でも寒帯に生息する動物は毛があると言ってから、

 例外的なのは、セイウチやゾウアザラシのオスである。 彼らは水中も陸上でも生活するが、毛がない。これらの巨大アザラシ類のオスは、 1トン以上あるが、棲んでいる海はマンモスの生活圏なみの寒帯である。 彼らに毛がなくてもいいのは、より小型のメスが同じ条件で、 毛をもって生き延びているので、大型のオスは毛がなくてもいいだけの生理的な 構造を持っているということなのだろう。むろん、この点については、将来の 研究を待ちたい。p90

著者が何を言っているの理解するのは困難であるが、例外を認めないという点に 注目すれば、著者の考えを推察出来る。つまりここで著者は大型の動物でも 寒帯に生息する場合は毛があると言いたい訳だ。だが、セイウチやゾウアザラシの オスはそうではない。だから著者は悩む訳である。 著者の熱に対する考えは、「1トンを超えると毛皮がない」 という結論、そして「ただし寒帯では毛皮がある」という明快なものである。 そこで悩むことになるのだ。

第五章 特別な裸の獣

著者はここで裸の哺乳類のうち、完全水中生活者でなく、 かつ1トン以下の体重の哺乳類について述べている。 最初は、コビトカバである。この章では著者は「一時水中生活者」という前の章で 導入した用語を使っていない。なにしろ、前の章で 「一時水中生活者には必ず毛がある」と言ってしまったから。 ともかく、コビトカバという生き物がいるらしい。

 ふつうのカバは最大四.五トンだから、サイよりも大きく、 これは十分に巨大動物である。むろん、毛皮はない。しかし、問題はコビトカバだ。 これは一六〇キロから一七〇キロと一トンよりもはるかに小さいのに、スマトラサイ のように毛があるわけではない。大きなカバとそっくりの裸である。p100

ここで重要なのは次の点である。

……。コビトカバはカバの祖先種だと考えられていて、 大型カバのほうがより水中生活に適した形をしている。
 コビトカバは大型のカバほどには水中生活に適していないが、 この大きさでも裸でいられるのはなぜだろうか。p102

このあと、著者はコビトカバが小型なのにどうして裸でも平気なのかいろいろ 考察するのだが、重要なポイントはそこではない。 コビトカバがカバの祖先種に近く、 カバもコビトカバも毛皮がないなら、大型化する以前に裸という形質がカバに 備わったと考えるべきである。祖先の形質が子孫に伝わるというのが 進化論の基本だからだ。進化論というのは何も新しくその種に備わった形質だけを 論じるのではない。もちろん時には祖先の形質が失われることもあるが、 基本的には変異が積み重なっていくのである。

つまり、コビトカバの例は著者の主張とは全く反対のことを示している。 コビトカバがカバほど水中生活に適応していなくて、しかも裸だということから、 裸という形質は水中生活への適応の初期段階で獲得されるということである。 少なくともカバの場合はそうだったようだ。

コビトカバの次はバビルーサが小型で裸の哺乳類である。

 偶蹄目イノシシ科のバビルーサには、毛の密なものから裸のものまで、 さまざまな変異があるといわれているが、ふつうはまばらな剛毛があるだけで、 ほとんど裸である。(Whitten etal.,eds.,一九八七)p104

ここで著者はバビルーサの体重について記していない。 仕方がないのぐぐってみると、 体重43〜100kgとある。1トンには一桁足りませんね。そのバビルーサの生態に ついては

バビルーサは湿地森林、竹薮、川や湖の岸に棲む。陸上で走れば速く、 水中ではよく泳ぐ。スラウェシの周辺の島に分布するのは、よく泳ぐためで、 海も渡るという。

これじゃあ、著者も自説を引っ込めたくなるのではないか。しかし、まあ次に 挙げるハダカオヒキコウモリは水に入ったりはしないようだ。これについては 単にそういうコウモリがいるというだけに留めておいて、 次はハダカデバネズミである。ハダカデバネズミは体重三〇グラムで、 塊茎などを食べて地中生活をし、真社会性社会とつくるという。 この真社会性社会というところに著者は俄然注目します。

 この目も眩むような、謎のなかの謎の動物ハダカデバネズミは、 哺乳類が裸で生きてゆくための条件をみごとに指し示している。
 彼らはアリ型の真社会性社会によって温度と湿度をコントロールし、 地中の塊茎を主食にして、高温乾燥のエチオピアの半砂漠高原でも裸で 生きてゆくことに成功した。それが一トン以上の大型の動物でもなく、 熱帯の水中や水辺に棲む動物でもない哺乳類が、裸で生きてゆく条件である。 その条件とは、第一に温度と湿度を一定に保つ住居であり、 第二にそれを維持する社会組織である。p114,115

しかし、著者はp73で「第三、 異なった分類群の動物の行動の原理を人間に適用することは、まったく意味がない」 と言ったことを忘れてしまったようだ。人間は地中生活者ではないし、 真社会性生物でもない。

ここでもう一つ注目しておきたいのは、これまでの著者の考えでは 「裸になるのは裸の方が有利だからである」ということであった。 しかしここでは「裸でも生きていける」というように主張が変っていることである。 「自然淘汰」と「最適者」という考えを捨ててしまった後も、 著者は種の形質はすべてその種に有利になる形質だという考えでいたようだ。 しかしここで「真社会性」に惹かれて、その考えを捨てたようである。

ところで、実はハダカデバネズミこそ摂取カロリーと放熱関係で論じられるべき 生物なのである。もし著者が熱の問題を真剣に考えていたならそのことがわかった であろう。以下はハダカデバネズミについての私の仮説である。

ハダカデバネズミほど小さく、しかも摂取カロリーが少ないと 毛皮を着ていたとしても放熱が多すぎるはずである。 地中という条件はこの問題を緩和するが、それでも十分ではない。 そこでハダカデバネズミは仲間と体を密着させて集まることによって放熱を抑える という方向に進化したと考えるのである。 しかし、個体が生きていくだけなら、それで十分だったかも知れないが、 出産にはさらに大きなエネルギーが必要である。 個々のメスが子供を生むという方法ではどのメスも 必要なだけのエネルギーを得られなかっただろう。そこで一匹の女王ネズミに 資源を集中して出産するようになったのである。 (というより資源を独占することに成功したネズミだけが出産できたというべきか)。 当然女王ネズミは周りを他のネズミ囲まれていて熱の放出も最低限に抑えられる。 この女王ネズミは周りじゅう仲間と体を密着させているので、 毛皮は必要がないか、邪魔になる。そこで女王ネズミは毛皮を失ったのだ。 一番外側にいるネズミや働きに出かけるネズミにとっては毛皮はあった方がいいが、 女王ネズミには不必要。しかし、すべてのネズミは女王ネズミの子なので、 結局はすべてのネズミが裸になったのだ。

第六章 裸体化仮説

ここではダーウィン以外の、そしてアクア説以外の、人類が裸体であることの 説明を挙げて、反論している。ここでは、それぞれの説が正しいかどうかよりも 著者がどう反論しているかに注目したい。

最初は「胎児化仮説」(ネオテニー説)となっている。ここでは 「胎児の裸は成人の裸と関係がない」ということを節のタイトルにまでして 主張している。その部分を引用すると

 そのうえ、胎児に毛が生えているかいないかは、哺乳類全体を見渡すと 大きな問題ではない。胎児の毛の生えぐあいで、成体の毛の問題が解決する わけではないからである。
 哺乳類の赤ん坊は、裸か毛に覆われているかという基準で見ると、 じつにさまざまである。単孔目のハリモグラの赤ん坊は完全に裸であり、 有袋類のカンガルー類の赤ん坊も、爪の先ほどの小さな裸の状態で生まれてくる。 アナウサギ(Oryctologus)もそうだ。これは飼いウサギとしてよく知られている もので、ウサギ科には十一属が含まれているが、その中でアナウサギ属の赤ん坊 は特別で、裸で生まれ、穴の中に作られた巣で育てられる。これとはまったく 対照的に、ノウサギ属(Lepus)のウサギは毛の生えた赤ん坊を地面に生み落として、 そこで育てる。
 これから分かるように、赤ん坊が裸か、そうでないか、胎児のどの時期に毛が生える か、などという例は、人間が裸であるという事実と関係がない。さまざまな哺乳類の 赤ん坊たちはさまざまなやり方をしているというだけである。
 人間はその発生の段階で毛を生やそうとしている。しかし、誕生直前に毛を失う。 これが謎の中の謎である。p124,p125

まず、哺乳類といっても有胎盤類と単孔目と有袋類はその赤ん坊の状態はまったく 異なる。単孔目は卵生だし、有袋類と有胎盤類を比較する場合は、育児嚢から顔を 出した時が、有胎盤類での出産に当ると考えるべきである。 これは著者がダーウィンを批判して言った不適切な比較にほかならない。 そして進化がどのように起るかという仕組みを考える時、胎児が裸であるという ことはやはり意味を持つのである。ある種の個体が胎児から成体になる過程で、 毛を生やしたとすれば、ある時期に毛を生やすという遺伝的な仕組みがあるという ことで、その仕組みが壊れるならば、裸の赤ん坊から裸の成体ができるのである。 そういう遺伝子の働きや、進化の仕組みを考えずに、単に裸の赤ん坊と毛のある成体 の例を並べただけで、関係がないと断じるのは単純過ぎる。

ところで、最後の、人間の胎児の毛の様子は、このあとで述べられる著者の 「はだかの起原」説では、まったく説明がつかない。

この後の、「自己家畜化仮説」と「耐久走仮説」は、あまり重要ではないと 思われるので私はとりあげない。

第七章 人類海中起原説

そんな説はない。アクア説は人類水辺進化説であり、せいぜい海辺進化説である。 ぐぐったけど、「はだかの起原」の中でしか使われていない言葉のようである。 このことからも、またアクア説に対する反論だけで一章を割いているという点からも、 著者がアクア説をダーウィンの「人類の起原」並みに重視していることがわかる。

これに反論することを期待されているので、 出来るだけ期待に添うよう頑張ってみよう。 アクア説に対する著者の反論は、まずライアル・ワトスンの著書に対する 反論として展開されるので、ひとつずつみていこう。

(一)の説明では、水中生活をする哺乳類はいろいろあると紹介して、 霊長類にあってもおかしくない、という。しかし、水中生活者として鳥類も 爬虫類もといろいろ挙げるが、 これは問題のある場所をずらすというダーウィン 流の手法である。むやみに例を挙げるのは、霊長類でも水中生活者があって おかしくない、という結論への助走である。

ダーウィンと比べていただけるとはアクア説支持者として光栄の至りです。 ここは別に反論というほどのことは書かれていない。

(二)そして、霊長類ではテングザルのような例があると言う。 しかし、テングザルがほとんどの時間を水中で過ごすというのは、 まったく事実ではない。湿地に棲んでいるので、水路を渡る時にドブンと 勢いよく飛び込み、急いで泳ぎ渡るだけである。
 しかし、シャーロック・ホームズとちがって、ワトソン君はそれが事実かどうか かまったことではない。「水生のサルは体毛を失ったかもしれない」といえば いいだけである。(一)で挙げたごちゃごちゃの動物群の中で、体毛を失って いるものが、どういうふうにいるのか? 彼は、それでもかまっちゃいない。

テングザルがほとんどの時間を水中で過ごすというのは事実ではない。 そして、エレイン・モーガンもそんなことは言っていないはずだ。 (手元に本がないので確証はないが、そんことが書かれていた記憶がない) しかしテングザルはしばしば水に入る。テングザルは水から出た後も 後足だけで立って歩くことがある。アクア説に対する反論で、霊長類は 水を怖がるからアクア説はあり得ないというのに対して、水を怖がらない 霊長類としてテングザルが挙げられている。

体毛の消失(と皮下脂肪の蓄積)は水中生活への適応方法のひとつである。 突然変異と自然淘汰という進化の機構からすると、 水中生活であれなんであれ、適応方法は一種類だけに限られるということはない。 もうひとつの適応は水中でも保温の可能な毛皮である。

 水生や水辺の哺乳類には毛がないとして(三)、それには物理的理由がある(四)、 と断言する。
 しかし、アザラシやカワウソやカピバラ(南米の水生大型ネズミ)などには 毛があり、そのれは陸上でも生活するためで、水辺生活者にはむしろ毛のあるものが 多いので、(三)(四)はともに事実無根である。p139

同じことである。この著者は「最適者生存」という考えは捨ててしまったはずだが、 それでもある環境に適応する方法はたった一つだけしか存在しないと 思っているのだ。ついでに言っておくと、裸だけが水中への適応ではないように、 裸の哺乳類のなかには水中への適応以外の理由で毛皮を脱いだものが いてもいいのである。

直接の反論ではないがダーウィンと比較されるという名誉を与えられているので 引用。

 この手の人は、論理的な矛盾は問題にしない。この手法では、論理的な整合性よりも、 そこをぼんやりさせていることこそが望ましい。読み手の心の中に印象を作るのであ って、説得するのではない。 これが無意識下への刷り込み作業である。これが、 サブリミナル手法である。この手の文章を書かせると、ライアル・ワトソンは ダーウィンやグールドと同じようにうまい。 どうも、うまい文章を作る欧米人は、 同じ手法を使うと見える。p139,p140

グールドもダーウィンと並び称せられて、さぞかしあの世で喜んでいることであろう。

 だが、人類の海中起原説は、裸の哺乳類を網羅した時点で論破されている。つまり、 獣の裸化は、水辺や水中生活の哺乳類だけに限ったことではないという事実である。 海中起原説の論者は、意識して水中、海中、水辺だけに話を制限しているが、先に 裸の哺乳類の例を挙げつくしたときにはっきりしたように、 裸の哺乳類は地中生活者にも、空中生活者にも、そして陸上生活者にもいる。p140

論破されているということを除けば、まさにその通りである。 これが論破になるためには、 「ある環境に適応する形質はたったひとつしかない。かつ、 ある形質はたったひとつの環境にしか適応しない。」 という条件が成立しなければならないのだ。

こんどは直立二足歩行について。まず、ライアル・ワトスンを引用してから 反論している。

「読者も試しに四つん這いになって海の中へ這ってみるといい。 するとどうなるか。水が深くなるにつれて、姿勢がほとんど無理やりにも 起きあがってしまうことに気がつくだろう。水がさらに深くなってつま先でも 立っていられなくなると、アザラシやカワウソが休む時のように、 垂直の姿勢で浮いていたほうが楽だし、疲れにくい」(前掲二二〇頁)
 そんなことはない。人は仰向けになって、大きく足と手をかきながら、 ゆっくり息をして、浮いている時が一番楽だ。アザラシやカワウソは、水中では 浮いている。寝転がっている。横になっている。毛皮が空気を溜めて、浮きの 代わりになっているからである。これらの動物たちは水中で垂直の姿勢なんか とらないのである。p141,p142

その通り。ライアル・ワトソンの間違いである。 エレイン・モーガンが言っているのは足が立つ範囲でのことである。 もうひとつエレイン・モーガンが言っているのは、水に浮く時は垂直には ならないが、水平になるということ。 どちらも、頭から足の先までが一直線になる姿勢だということである。 少なくとも四足歩行に比べれば一直線に近い。 これだけなら、直立二足歩行のそれほどつよい支持にはならないかも知れないが、 テングザルが川を渡る時に水中で二足歩行することがあるというし、 水中を出てもそのまましばらく二足歩行を続けることがあるというのは かなり強い状況証拠だと思う。いや、オレは見たわけじゃないけどね。

ここで著者はもう一度アクア説への反論をまとめている。

 第一。海岸生活では毛皮を必要としないか? そんなことはない。 毛皮のないクジラたちは完全な水中生活者であって、海岸生活者ではない。
 海中起原論者たちが仮定するような、海岸、 水辺で生活する獣で毛皮を失ったものはいない。 たとえば、カワウソやアザラシを見よ。p142

水辺の生活でも毛皮はあった方がいいだろう。その毛皮が濡れずに機能するなら。 水辺で毛皮を失っている獣には 少なくともカバがいる。著者の言い方によればカバは一時水中生活者である。 ほんの少しの時間でも水から上がれば一時水中生活者だという定義を与えたのは 著者であることを忘れてはならない。 カバが大型哺乳類であるからといって、水中生活者でなくなったわけではない。 カバは水に入っている時間が長いが、コビトカバは完全に水辺で生活する獣である。

 第二。水中で直立するか? 人は誰でも泳ぐ時には水平になるのであって、 直立はしない。水の深さが腰を越えると、体は浮力のために不安定になり、 もっと深くなるとついには浮き上がる。p142,p143

水平になることが、たぶん関節の柔軟性とかで、直立二足歩行の前適応となる 可能性は十分ある。それより、テングザルが二足歩行で水を渡るということが 本当なら、それが水中(足のたつ浅瀬)で垂直になる証拠だ。

 第三。髪は日焼け除けか? 泳ぐ時には頭だけでなく肩も水面上に出ている。 だから、日焼けを防ぐなら頭から肩に毛をマントのように残さなくてはならない。 そうすれば雨の日にも雨具はいらなかったのに、残念である。p143

その通り。たぶん、エレイン・モーガンの間違い。 というか、エレイン・モーガンはなんでも水中生活のせいにしすぎである。 たぶん、というのはエレイン・モーガンの言っていることも根拠がないが、 この反論も十分強力とはいえない。だが、少なくとも日焼け除け説は根拠薄弱である。

同じくエレイン・モーガンの子供がつかまるためという説も、日焼け除け説以上に 根拠がない。間違いだと言っていいだろう。

ここで、雑賀青年が登場して、アクア説のその他の論拠を示す。

「背中の毛の流れは、水が通りすぎる流線を示しているとか、 脂肪層は水中生活の証拠だとか、いろいろありますよねえ。 そういう証拠は、どうなんですか? ……いや、そんなに怒らないで。 素人の質問ですよ。素人はいろいろな例を挙げて水中生活の証拠だと言われると、 そうなのかなって思っちゃうじゃないですか? そういう細かい点についても、 ちょっと触れていただけると、ありがたいかな、と」
 背中の毛の流れや皮下脂肪といった海中生活の証拠と言われるものは、 海中生活から経過した時間をまったく無視している。あるかなしかの毛が 水の流れに対応していても、生きていくことにはまったく関係ない。 議論に都合がよい特徴を探し出すのは仮説提唱者の常だが、その動物種の生存に 直接関係のない形態の特徴のひとつふたつを根拠に、 その種の起原を考えることは意味がない。問題は、その生命の存続に直接関係する 形をしっかり取り上げて、それが生活にどのように関係しているかを考えることだ。 p144,p145

皮下脂肪はアクア説の重要な根拠である。しかし、それ以上に重要なのは、 過去の生活の痕跡は、種の起原を探る上でも、生物種の系統を確定する上でも、 極めて重要なポイントであるということである。 ある種がその祖先種から受け継いできた形質は、たとえ痕跡程度になっていても、 その種の起原を示しているのだ。

もっと極端に言えば、ある種の祖先種や系統関係が不明の場合、それを探る術は、 その種が祖先から受け継いできた形質しかない。その形質が今でも有利に働いている こともあれば、今では制約となっていることもあり、またどちらでもない場合もある。

「モーガンさんの『進化の傷あと』(望月弘子訳、一九九九a)という本では、 人間の発汗作用の問題点が指摘されています。どうですか?」
 どうですかって、モーガンは動物について無知だよ。 次の一句を見れば、それが分かる。
「哺乳類の無毛化を促すような暮らしかたは、この世に二つしかない。 丸裸のソマリアデバネズミのような完全な地下生活と、水生生活だ。 私たちの祖先が一日二四時間をすべて地下ですごしていたと考えるような人は、 おそらくいないだろう」(同上、一一四頁)
 モーガンという人は、こういう言い方をするんだよ。 「この世に二つしかない」と断言して、ハダカオヒキコウモリを知らない無知を 堂々と言いつのる言い方。そして、「一日二四時間すべて地下で」という誇張。 海中起原説では水中生活をしていたのか、海岸で生活をしたのか、 それを徹底して曖昧にしているけれど、そんなことはどうでもいいと、 と言わんばかりだからね。p145,p146

エレイン・モーガンの表現のミス。ハダカオヒキコウモリを知らないことは、 大したことではない。ハダカオヒキコウモリはよく知られた動物ではない。

「つまり、汗にともなうさまざまな害があるんですよ」
 どういう害ですか?
「ここに列記されています。『(一)働きはじめるまでに時間がかかる。(二) 水分がたくさん流失する。(三)塩分がたくさん流失する。(四)体内の水分や 塩分が不足しているという危険信号が出ても、それに対応するまでに時間がかかる』 (同上、一二六〜一二七頁)。これほど人間の発汗には問題があります。
 私はこれを読んだが、ほんとうにあきれ返った。しかし、深呼吸を二〇回も やってやっと心を落ち着けた。
 その議論は変だと、私は思いますよ。「反応に時間がかかる」と二回も 繰り返しても、だから生存に決定的に不利というわけではないでしょう。 生物 のある反応を取り上げて、これは速い、これは遅い、と決め付けるのは変でしょう だって、発汗には体の熱を下げるという生理的な理由があるわけで、なぜ遅いとか、 速いとか言わなくてはならないんですか?
 水分や塩分がたくさん流失するという点も同じです。「必要以上に汗をかく ことには、なんのメリットもない」(前掲書、一二八頁)と断言していますが、 何リットルなら必要で、何リットルなら必要以上ですか?  その断言につづいての ニューヨーカーたちが夏の気候についてこぼす言葉「暑さはたいした問題じゃない。 だけどこの湿気が」という引用は、印象でしかありませんよ。
 いっしょに歩いていて分かったと思いますが、乾燥地帯のマダガスカル人は、 私たちよりずっと水を飲まないし、汗もかきません。そうやって環境に合わせて 人間も生きています。生存を危うくするように、必要以上に汗を流したり、必要を 満たさないほど反応が遅いということはありえません。p146,p147,p148

反論としては十分ではない。発汗が不完全なため、人間は熱射病で死ぬ。 マダガスカル人の例だけが反論になっている部分である。 それにエレイン・モーガンが言っているのは、 「人間の裸の理由がサバンナ説のように暑さに対する適応だとしたら、 人間の発汗システムに欠陥があるのはおかしい」ということである。

「つまりですね。『水分と塩分を浪費し、しかも体温上昇の時点から効果が 出はじめるまでに時間がかかる人間の発汗システムは、水分や塩分がふんだんにあり、 体温があがりすぎることの少ない環境で発達したものと思われる』(前掲書、一三一頁)ということです」
 水分や塩分をすぐに補給できる環境とは海岸ということですか?
「ええ、モーガンさんは直接にはそう言っていませんが、アクア説からすれば、 当然そうですね」
 私は、こういうバカ話が学術的装いを凝らして流布するという、人間世界に 愛想をつかしている。 しかし、誰もが私のような経験をしているわけではないから、 再び深呼吸を一〇回繰り返して、心を平静にして雑賀さんに答えることにした。 なにしろ、こういう細部だけを誇大に取り上げた空想的な話に、人間は実にたやすく だまされるからである。順を追って説明すれば、あるいはこの人間特有の妄想癖を 崩すことができるかもしれないと、もう一度、深呼吸した。p149

 このあと、著者が学生時代にドラム缶で漂流するという計画を立てた話になり、 そのあとでようやく、「人間は海水を飲めない」という反論が出てくる。

その通り、人間は海水を飲めない。これはエレイン・モーガンのミス。 次のように主張するべきであった。「人間の発汗システムは、 体温があがりすぎることの少ない環境で発達したものと思われる」 あるいは、「人間の発汗システムに欠陥が多いのは、そのシステムが 水辺を離れてから再度発達しはじめたからで、 十分進化するための時間が不足している からである」

エレイン・モーガンが塩分と水分を強調したので、著者もそこに反論したわけだ。 しかし、水辺では汗をかくより水に入ったほうが早いだろう。 少なくとも大量の汗をかいたりする必要はないはずだ。 著者も「体温があがりすぎることの少ない環境で発達した」という点には、 まったく反論していない。

「でも、これはどうです?『霊長類中、人間の皮膚にしか見られない種々の 特徴(無毛性、皮下脂肪層、大きな弾力性、アポクリン線の消失、皮脂腺の 活発な活動など)はすべて、水生の哺乳類たちには似たような例があるのに、 草原の霊長類には類例がない』(前掲書、一三三頁)、 これはアクア説にとってはきわめて有利な証拠だ、と彼女が言っているとおり ではないのですか?」
 モーガンは面白い言い方をしますね。汗腺の機能の話の中にさしはさむ文章 としては異様ですよ。この一文はダーウィン流の言いぬけである ことが、雑賀さんは分かりますか?p152

エレイン・モーガンもダーウィンの仲間に入れてもらえました。 このあと、言いぬけの説明があるが、実質的な反論は次の箇所からである。

 ちょっと考えてみてください。海岸や海中に棲む哺乳類で、人間のように 汗をかく種がどこにいるのでしょう。アザラシのヒレにはエクリン腺があって、 「体を冷やすためにそのひれを空中でぱたぱたさせると、エクリン腺から多量の 汗が分泌される」(前掲書、一三四頁)これだけです。
 アザラシやその近縁の食肉獣では、アポクリン腺は全身にあるが、エクリン腺は 足裏の肉球にしかない。そのために、アザラシはひれにエクリン腺があり、ここから 汗をかく。しかし、霊長類ではエクリン腺とアポクリン腺が全身に分布していて、 類人猿ではその割合はほぼ半々になる。人間ではアポクリン腺はわきの下や陰部 だけで、全身に分布するのはエクリン腺で、これで汗をかく。
 パタスモンキーやアカゲザルではエクリン腺とアポクリン腺のどちらから汗が 出ているか分からないが、ともかく汗をかく。汗をかく機構が、アザラシたちと 霊長類では違っている。人間はその霊長類の汗をかく機構をもっと推し進めて いて、アザラシたちの汗をかく機構とはまったく違っている。どこが、人間と 水中生活者が似ているのですか?p153,p154

アザラシとの比較が非常に有利な証拠とはいえない。 一方、「人間はその霊長類の汗をかく機構をもっと推し進めていて」は 正しいとはいえない。人間の発汗システムは欠陥が多く、他の霊長類に劣る。 反論としては不十分である。

 直立二足歩行には、ほかに例がなかった。しかし、獣たちの裸の皮膚には、 いくつかの例がある。その例のひとつひとつを取り上げなくては人間の裸の 秘密に迫れないはずなのに、モーガンは水生哺乳類以外の例を無視する。 こういう恣意的な研究方向を、私は支持しない。だから、私は海中起原説を 信用しない。p154

モーガンはゾウの祖先が水生だったと考えているので、 水生哺乳類以外の例というのは、ハダカデバネズミとハダカオヒキコウモリだけ になる。これは本当の例外と言えるんじゃないかな。 著者だって、大型哺乳類が裸になることの例外としている。 それよりも、著者が海中起原説つまりアクア説を支持しないということが ここではっきりしたので、強調しておこう。 島泰三はアクア説を否定している。

次は皮下脂肪の話だ。皮下脂肪はアクア説にとっては強力な証拠なので、 これが否定されるとアクア説の成立は危うくなる。

「でもですね、人間の赤ん坊はですね、脂肪に包まれていると言ってもいいくらいで、 人間の新生児は体重の一六パーセントが脂肪ですが、ヒヒでは三パーセントだと 言います。人間の太りやすい体質や皮下に脂肪がたまる性質は、水生哺乳類としての 適応のひとつだと言われています。太っているほうが浮きやすいとか。 これはどうですか?
 それに人間特有の気管の開口部が下がる。つまり、喉頭が後退するという構造は、 トドとジュゴンにしかない、と言われていますが」
 喉頭の問題は、あとで言葉の起原に触れるときに話すことにして、ここでは皮下脂肪 の問題に始末をつけておこう。 なぜ、人間の新生児には脂肪が多いのか?  人間は脂肪をたくさん食べるからだ。 なぜ、人類の脳は大きくなったのか? 初期人類以来骨を 主食としたので、 人類は他の哺乳類や類人猿たちよりもはるかに脂肪を多くとる ことができたからだ。脳を作る素材の大部分は脂肪で、「脳はほとんどリン脂質で できている」(ホロビン、金沢泰子訳、二〇〇二、九五頁)
 人間の皮下脂肪の問題は、その主食と裸化から解き明かされる問題であって、 水生哺乳類の特質として説明されるような問題ではない。p154,p155

人類の主食が骨だとは知らなかった。ぐぐってみよう。 人類の主食が骨だというのは、島泰三という人が「親指はなぜ太いのか」という本 で言っていることですね。なんだコマーシャルタイムか。

実のところ、皮下脂肪についても喉頭の後退についても著者は独自の説を挙げている だけで、アクア説の欠点を指摘しているわけではない。次は食料の問題だ。

「サバンナと対照的に海岸は、海草、魚、甲殻類、二枚貝、軟体動物をはじめとする 無脊椎動物、海鳥の卵など、食物に満ち満ちていた。その上、時にはジュゴンや ウミガメの死体が棚ぼた式に流れてくることもあった。しかもこういった食物は たいてい、一年じゅう途絶えることがなかった」p156

これに対する著者の反論は途中からだが、以下にうまく列挙されている。

しかも、海草ですか! 熱帯の海で海草を探す者は苦労するだろう。サンゴ礁の海の 海草は貧弱である。
 魚。これも現代人以外は食料にしていない。漁猟が始まるのは、現生の人間の時代、 一一万年前である(本書「第十一章」参照)。
 甲殻類。ジストマが寄生していて、生食で死んだ人の例には事欠かない。
 二枚貝。熱帯の海岸でいちばん困るのが、この二枚貝の少なさである。アサリや ハマグリが蹴っ飛ばすほどいるのは温帯の海であって、熱帯の海でこれを探しても 食糧というほどにはならない。その上、脂肪はない。
 軟体動物をはじめとする無脊椎動物。ナマコやゴカイですか? カロリーには なりません。
 海鳥の卵。「一年じゅう途絶えることはない」はずがない。
 そして、ジュゴンやウミガメの死体。棚ぼたには違いない。これらがどの程度の 頻度で漂着するものなのか、調べてから言わないと。
 つまり、モーガンは「海岸にはなんでもあるわよ」と言うが、その海中人類に とって、何が主食なのか考えたこともない。この食物の一覧からうかがえるのは、 彼女の食物への無関心である。初期人類の海中生活について、緻密な生態的な 思考が欠けている。海中生活の利点は、なによりそこで生活する動物の食物の 利点でなくてはならない。p156,p157

確かにエレイン・モーガンは言い過ぎかも知れない。でも本当に熱帯の海はみんな サンゴ礁なのか。遠浅の海で引き潮の時に取り残された魚を取るとか そういうことは不可能なんだろうか。甲殻類にジストマがいても死亡率が低ければ 利用可能ではないのか。ジストマはいつから甲殻類に寄生しているのか。 オレには熱帯の海辺が食糧がなくて生活できない場所だというのはちょっと 理解できない。「なによりそこで生活する動物の食物の利点でなくてはならない。」 これは著者の持論ですね。オレは生きていけるだけの食物があればいいと思う。 それさえもないというなら、 食糧は陸からとったということになるから、確かに問題である。

しかし、著者はアクア説について有利なことも言っているのである。 それを取り上げないのは公平さに欠けるというものである。 エレイン・モーガンが新しい本(人類の起源論争)で汗による塩分排出説を 撤回したことについて述べてから

 だったら、何が中心なのか?
 あの説明がまずければ、こっちにしようという海中起原説が根底から 間違っているのはダーウィン流儀の自然淘汰の呪縛から離れられなかった ためだ。p159,p160

アクア説の中心は「裸と皮下脂肪の組合わせ」である。 これがアクア説の始まりであり、 今でもアクア説の中心となっている根拠である。 それよりも、アクア説が優れているのは「ダーウィンの進化論」から外れていない ということだ。これがアクア説が多くの人に受け入れられている理由である。 アクア説支持者を一掃するには、アクア説が進化論から外れていると言えばよい。

人類海中起原説に対する最後の反論は、エレイン・モーガンの著書に対する 反論ではなくて、インディアナポリス号の惨劇から、人間がいかに海中生活に 適していないを述べている。

 サメは漂流する人間にとって最大の脅威であり、この事件ではサメに襲われて 死亡した者は、約二〇〇人と推定されている。皮膚に傷がなければ、サメや魚 に襲われる確率は低くなるが、海水に長く浸かると人間の皮膚は潰瘍を起こす。 p161
 真夏の熱帯であっても海水温度は二九度以上にはならない。海水中に長く浸かると、 体温が奪われて低体温障害を起こす。p161
「海水そのものが刺激性で、その成分には三.五%の塩化ナトリウムや硫酸塩、 マグネシウム、カリウム、重炭酸塩、ホウ酸など微量元素がふくまれていた。 海水に浸かることは、弱酸性のお湯に浸かるのと変わりがなかった」p162
 海水を偶然に少量飲むことでさえ人間の血液には障害を起こすが、 それを水の代わりに飲み下すと致命的な結果を招く。 人間は、飲んだ海水を処理することができない。p162
 海に長く浸かっているために現れる多くの障害は、人間に精神錯乱を引き起こす。 そのひとつは幻覚であり、そのひとつは異常に昂進する攻撃性である。p163

たしかにこんなに証拠を挙げられたのでは、 人間が海中で進化したとはとても信じられないだろう。

アクア説が海辺とか水辺といっているのは何も反論を のらりくらりとかわすためではない。海水か淡水かを決定する証拠がないので そう言っていないだけである。海中で進化したと言っている人はいないか、 いても例外的だろう。エレイン・モーガンは海辺の方が有力だと思っているようだが、 海水に不適応だというなら淡水に変えるだろう。

まとめとして著者はこう言っている。

 モーガンは海中起原説をアクア説と言いなおして、 直立二足歩行と裸が始まったのが、 海中なのか海岸なのかをぼんやりさせているけれど、裸と水辺という条件をもっと つきつめて考えれば、別の方向が見えてくる。獣にとって裸になることは、 いろいろな障害をともなうけれど、そのもっとも大きな問題のひとつが裸の 皮膚からの水分の蒸発という問題なので、水辺での生活に引き寄せられる ということだ。
 裸の獣たちの多くが水辺にいるのは、エクリン腺による水分の無駄な垂れ流し という問題のためではなくて、裸の皮膚が水分の蒸発を抑えることができない という、裸の皮膚の適応的にマイナスの性質のためである。p165

これは実は意味的にはアクア説の根拠とほとんど違わない。
裸という形質を得てから水辺に来ると考えているようだが、少し変えて、 水辺で生きている獣に裸という突然変異が起ったと考えたらどうか。 その場合には、水分の蒸発という問題が回避されるので、裸という形質が 淘汰されない。こう考えれば、もうそれは裸という形質が水辺で進化するという ことなのですよ。

第八章 突然変異による裸の出現と不適者の生存

この本はここからが著者独自の説がはじまる。のだが、なにしろ、私の頭の 中は(ネオ)ダーウィン主義に毒されているので、著者の主張を十分には 理解できていないかもしれない。

ここで著者はヌードマウスとエリマキキツネザルに出現する無毛の子供を例にして、 どちらも適応的な性質ではないと言っている。そこから、裸という形質は、 (大型哺乳類を別にすれば)哺乳類にとって適応的な性質ではないと結論する。

しかし例外的ながら大型でない裸の哺乳類が存在する。それはこの不利な裸という 突然変異が起ったときに、同時にその不利をなくす別の突然変異が起ったからだ と著者は考えるのである。このような偶然が重なる可能性は非常に低い。 したがって、それは一つの科のなかで多くても一回しか起こらない。 人間の場合にもそれが起ったのだ。

というように著者の考えをまとめてみたが、 これが正しいかどうか私は確信が持てない。 そもそも「突然変異と自然淘汰」 という考えは捨てたのではないか。 いや、まてよ。「自然淘汰」は捨てたけど、「突然変異」は捨てていないのか。 なんで組になっている概念の片方だけ捨てて片方は残すんだろう。 ダーウィンの時代にはまだ突然変異という概念はなかったらしい。 自然に存在する変異に対する自然淘汰というのがダーウィンの考えだったようだ。 しかし著者はネオダーウィニズムについても否定している。

著者の突然変異に関する解釈を示している文章があった。

「自然淘汰」による「漸進進化仮説」は、跳躍する変化を説明できない。 突然変異は、この跳躍を説明する原理としてひとつの可能性を示した。 しかし、それは多くの場合不利な変異であるために、ダーウィンの進化論を 論破できなかった。突然変異は「異常」 を説明するだけだからである。p179

なに? 突然変異は自然淘汰と対立する概念なのか。 著者はどこで「突然変異」が「自然淘汰」で説明できない変異を説明する概念だと 思ったのだろう。そもそも「自然淘汰」は淘汰であって変異を 作り出さないはずである。 「進化は突然変異自然淘汰によって説明される」 とかいう文章はよくあるが、この文章の意味をもしや、 「進化を説明する概念には、突然変異がある。それと、もうひとつ 進化を説明する概念に自然淘汰がある」と解釈したのだろうか。 私には他に解釈が見つからない。 しかし、それは「」の意味が違う。 しかし、純粋に日本語解釈の問題として考えるならば、そういう解釈も 不可能ではない。そうでないと上の引用は意味が通らないのだ。 「」の問題は重要である。 なにしろ「」を専門に研究している学会まであるのだ。

ダーウィンは突然変異を 知らなかったかも知れないが、ネオダーウィニズムにおいては突然変異は 自然淘汰の前提となるさまざまな変異の存在を示す重要な概念であって、 「突然変異」はダーウィンの進化論を論破するものではない。

しかも「突然変異」が異常を説明するだけというのは どこから仕入れた知識なんだろうか。「突然変異の大部分は生存に不利な形質である」 とは言われるけど。(中立説によれば 「突然変異の大部分は生存に有利でも不利でもない中立な形質である」となるが)

それはそれとして、

 バビルーサ、ハダカデバネズミ、そしてハダカオヒキコウモリの共通点は、 それがイノシシ科、デバネズミ科、オヒキコウモリ科のなかで独立の属であり、 特別な種というごく稀な動物種であり、毛がなくなっただけでなく、特別な袋 をもったり、例のない社会構造をもったりして、形からも行動の上からも際立った 特徴をあわせ持っていることである。それは一つの科の中に起った完全に 孤絶した一回だけの現象だという点で、この孤絶という特徴は 人間の特徴でもあろう。
 裸化という生存に不利な劣性の突然変異が、それを保障する特別な能力や 形というもうひとつの別の強力な突然変異によって相殺され、これによって まったく例外的な生命体を生み出すことになるが、このような特別の出来事が 重なるような例が、そんなにたくさんあるはずもないからである。
 他の生命体から超絶した特徴を導く突然変異の重複を仮定する理論を 「重複する偶然仮説」と呼ぶことができるだろう。それこそが「不適者の生存」 を実現する。p174

生存に不利な突然変異がそれだけで存在しないと考えるのは いいとして、「特別な能力や形というもうひとつの別の強力な突然変異」 は、どうしてそれだけ単独では起こらないのだろうか。

それとハダカデバネズミの裸が突然変異で、その社会性も突然変異だとしよう。 しかし突然変異は個体に起こるのか、種に起こるのか。 ハダカデバネズミの社会性は一個体では実現できないので、この著者が 考えている突然変異は種に対して起るのかもしれない。

たった三つの例から一般法則を導き出してしまうのもすごい。 そこまではまだいい。よくないと思う人もいるだろうが、 そこまではまだいいのだ。

問題は次の理論である。 私が著者の文章を恣意的に引用して、著者の言っていないことをでっちあげている のではないことを示すために、長めの引用をする。

 現生人類の直接の近縁であるヒト属、アウストラルピテクス属、 パラントロプス属の三つの属の一一種(種数については議論が多いが)が 裸だった場合は、裸は人類の三属にまたがる特徴であり、バビルーサ、 ハダカデバネズミ、ハダカオヒキコウモリとはまったく別の特徴だ ということになる。つまり、哺乳類の他の分類群とはまったく別の条件によって 、人類の裸化が起ったのだと考えなくてはならない。
 その場合は、人類の裸は水中生活者や巨大動物のように、大分類群の科の レベルでの特徴であるということになる。しかし、それは論理としても、 現実にもありえない。なぜなら、科や目のレベルで毛皮を失っているものは、 他の陸上哺乳類と一定の基準(水中生活や巨大化で)によってはっきり 区別できる。しかしヒト科(オランウータンを含むやり方とそうでない 分類方法があるが)では、チンパンジーやゴリラなどの近縁種が毛皮をもって いるのだから、アウストラロピテクスなど三属だけが裸だったとすると、 哺乳類にまったく例がない現象を考えなくてはならない。
 保温保水は生命維持にかかわる重大問題なのだから、現生の哺乳類を総覧した 結果得られた原則からヒト科がはずれることはないはずである。
 この結論、ヒト科もその生命維持について哺乳類の原則からはずれるはずがない というこの結論自体は、それほど目新しい見解ではない。しかし、これを 裸化に関係させると、たいへんな推論を導くことになる。その推論はこうなる。
 裸化はヒト科にあっても、ただ一属一種の例外的な形質である、 と。
 「重複する偶然」が三属一一種にまたがって起ることは、確率から言っても不可能 である。
 ヒト科ではアウストラロピテクス属やパラントロプス属はむろんのこと、ヒト属 でもホモ・エレクトゥスやネアンデルタールは現生のヒトとは別種であるかぎり、 裸ではなかった。
 これは、実にどきどきするような結論だけれど、論理の示す方向はそこにしかない。 裸になったのは、現生の人間ただ一種。他の三つの属にまたがる一〇種の人類種は、 全部毛に覆われていた、と。p176,p178

上の引用中の太字強調はこの「はだかの起原について」のウェッブページ中の 唯一の例外として、私がつけたものではなく、本文中でも太字になっていた部分である。

ここで言っていることをしばらく理解できなかった。私はどうして 現生人類だけが裸であると言えるのか、それがどうして論理的な結論なのか、 しばらく悩んでしまったのだ。

が、実は書いてある通りで、現生哺乳類を横断的に観察して著者の得た結論 「裸の種は一科に一種だけ」を、化石種であるヒトの祖先または祖先の近縁種に あてはめて、歴史的な種を含めても「裸の種は一科に一種だけ」と言っているのだ。

コビトカバが裸であるという例を著者が挙げたときにも、祖先種が裸であったと 著者は考えていなかったけれど。ここでもそうなだ。裸という形質がどんなに 偶然が積み重ねられて作られた形質だとしても、その形質は子孫の種に受け継がれ るはずだ。

コビトカバはより原始的だとはいっても現生種である。その時はそこまで 考えが回らなかったのかも知れないが、ここはこの本の中心となる主張である。 何度も考えて間違いないと思った上での主張であろう。

「祖先種の形質は子孫種にも受け継がれる」という概念 があると、この本の中心となる「裸化はヒト科にあっても、 ただ一属一種の例外的な形質である」という主張は出来ない。

しかし、このことは著者の主張が自己矛盾しているということにはならない。 既に何度も引用してきたように、著者はダーウィンの進化論を否定しているし、 ネオダーウィニズムも否定しているのである。そして、その代わりになにか 別の進化論を主張しているわけではない。

ダーウィンに反論して自身の理論を語ったところで次のように言って いたことを思い出してほしい。

 例えば、マダガスカルのコブ牛たちは枯れた草を食べることができないと 言われているが、ここに枯れた草を食べることができる牛が現れたら、マダガスカル の中央高地、日本列島全体に等しいほどの広大な面積を占めるほとんど無人の草原は、 大牧場に変わるだろう。そのように、新しい食物を生態系の中から開発し、 自分の体もそれに適応して変ったとき、 まったく新しい生命が生まれる。それこそが、「種の起原」だ。 p56

「まったく新しい生命」というのは誇張ではなく、 「(祖先種の形質を受け継がない)まったく新しい生命」という意味だったと考えれば この本での著者の主張は最初から首尾一貫している。

日本語の問題として文字どおりに考えれば、確かに祖先種の形質を 受け継いでいたのでは単なる改良であって、まったく新しい生命 とは言えない。

ただ、祖先種の形質が子孫種に受け継がれないのでは、 進化という概念とはいえない。 著者はダーウィンの進化論に 反対しているだけではなくて、それ以外のもろもろの論説も含めて、進化論に 反対しているのだ。

第九章 火と家と着物と

第十章 ネアンデルタールの家

第十一章 裸の人類はどこで、いつ出現したのか?

ここは別に著者独自の見解はない。いくつかの説のなかから、 著者の気に入った説を紹介しているだけのようだ。 アクア説にとっても著者の説にとっても証拠にも否定にもならない。

第十二章 重複する不適形質を逆転する鍵は?

ここでは喉頭の変化について述べている。

 人間のもっとも大きな特徴に、生存に有利ではない、つまり適応的でない 形が現れるのは、これで二度目である。裸と喉頭の拡大と。これを自然淘汰に よって説明するのは無理で、突然変異によって現れた形質というほうが すんなりしている。(注)p245
注:現代人特有の喉頭の位置と構造は、直立二足歩行によって獲得されたという 見解もある。「話し言葉を可能にした広い喉頭領域、つまり声道の成立の契機 となったのは、直立二足歩行である」(奈良、二〇〇三、一〇四頁)と。 これは重要な形質が移動様式にごときに影響されると考える誤りだと私は 考えている。p249

アクア説の喉頭の変化に反論するのはここしかないのだが、 忘れてしまったようだ。それとも自説が正しい以上、アクア説が間違っているという ことだろうか。

 人間の特徴的な喉頭の構造は、赤ん坊の生死にかかわる不利な形質である。 これがなぜ、生後三ヶ月という早い時期に発現するのか? 母乳を飲んで 母親に依存してしか生きていけない赤ん坊に、なぜこの重大な時点で生死を 分ける不利な機構が発展するのだろうか? 言葉を発するためなら、この 変化は生後一年でもよかったはずだ。
 そうならなかったのは、この言葉を発するための構造変化が遺伝的に 決定されたからだろう。p245,p246

もう驚かないけど、「喉頭の変化以外のことは遺伝的に決定されたのではない」という ようように考えているか、そうでなければ、 「喉頭の変化が生後一年で起ったとすれば、 その構造変化は遺伝的に決定されていない」と考えているようである。

これはまあ当然のことである。進化が否定されるならば、遺伝についての 考えも進化論信者と異なっていて当然だからである。 しかし、著者は突然変異が遺伝的なものだと知っている。

 喉の構造が変っただけでは、言葉は出ない。吸い込んだ息を細かく吐き出して、 吐く息に音色と高低と強弱をつけて自在にあやつる肺と口の周辺の筋肉とそれを 支配する神経系の発達が必要になる。そのすべてがいっぺんに起った、と私は 考えている。この「重複する偶然」が、「不適者の生存」を実現した、と。p246

言葉は話し手が勝手に喋っただけではコミュニケーションが成立しない。 聞き手にも少なくとも言葉を理解する能力が必要である。 このことは、「話し手の個体にこれらの突然変異がいっぺんに起っただけでなく、 同時に別の個体にも言葉を理解するために必要な突然変異が起った」ということを 示している。そうでなければ、突然変異が個体ではなく種に起った と考えているのかも知れない。

 このネアンデルタールを圧倒した後期旧石器革命は、後に幾度かの波をもって 人類史を彩る技術革命の最初のものだと言える。それは、大脳の前頭葉の巨大化 の産物だっただろう。だが、問題はここにある。p256

「裸」と「喉頭の変化」は現生人類の特徴であり、かつ不適応な性質だったと 考えた著者は、ではもう一つの現生人類の特徴である前頭葉の発達はどうだろうか と考える。一見すること適応的に見える前頭葉の発達について考察するのである。

 人間の巨大化した前頭葉は、同じ大きさの脳を持っているネアンデルタール との大きな違いで、ここから人間特有の能力が生み出され、人間の圧倒的能力の 源泉だとして、これまで積極的に評価されていた。しかし、野生動物の生存という 視点からは、その巨大化にはあやしい問題が含まれていると、私は思う。
 死後への恐怖という想像上の恐怖に打ちひしがれるようになったのは、人間が 生まれたときに始まったのだろう。死者の埋葬は、それを示している。だが、 それは野生動物にとっては、もっともありえない概念である。p257

前頭葉の発達も不適応な形質だったのだ。しかし、ここに著者の説の問題点がある。 自己矛盾点がある。ここを突けば著者はその反論に回答しなければならないだろう。 前頭葉の発達が不適応な形質だと言っておきながら、著者はそれを補う「重複する 偶然」を挙げていない。著者の「重複する偶然」説から言えば、 不適応な前頭葉の発達を補うための別の突然変異が必要なのだ。 しかし、この本はそのことにまったく触れていない。

おわりに アンタナナリヴ、二〇〇三年夏

 神に似せてつくられた人間という宗教的な観念を「進化論」が打ち破った としたなら、「自然淘汰」による「最適者」として生存している「完全な人間」 という虚像を、「重複する偶然」による「不適者の生存仮説」が壊し始めている。

本文を読まないでこの文章を読んだなら、著者は進化論を認めていると思うだろう。 しかし、しかしいまやこの文章の意味はそうではない。 宗教的観念→進化論→「重複する偶然による不適者の生存仮説」というように 以前の観念が破壊され新しい観念がそれにとって替わるという意味に 読むべきであろう。

あとがき

あとがきでも、 著者はこの本の成立にとって重要な屈曲点がいくつかあったとして、

 そして、最後の屈曲点は、ダーウィンやネオ・ダーウィニストの自然淘汰 理論との決別だった。

これはこの本の重要なポイントである。控えめな著者は進化論と決別したとは 言っていない。しかし、現代では進化論といえばネオダーウィン主義の「総合説」 である。木村資生の中立説も重要な説であるが、中立説も「総合説」 と対立する訳ではなく、著者も中立説を支持しているわけではないことからも、 著者が決別したのが「進化論」であることがわかる。

資料

あとがきでこの本が終る訳でもないし、私の言葉が終る訳でもない。 「資料4(本文83頁)水中生活での保温」で熱の問題について語っている。

ネズミイルカが水温の低い海にいることについて著者は熱的な解釈をする。

 この小さなイルカが冷たい海で生きていけるのは、 比熱の大きな水が温度調節に 役割を果たしているのだろうという推論だけですむだろうか。 ベーリング海のような 冷たい環境で40キログラム程度の小型の獣が独自の保温機構がなくて生存できる だろうか。
 コビトカバの例では、300キログラム程度なら熱帯の水中生活では、 毛皮なしの温度調節はできそうだ、と考えた。推論を簡略にするために、 陸上の熱帯では1トンが毛皮なしで巨大化だけで体温維持が可能な大きさ の下限であるとし、水中では100キログラムがその大きさの下限だと 仮定する。つまり、水は比熱が高く、温度変化がゆるやかなので、 体温調節機構は1桁負担が少なくなる、と考える。 (後ろからの横書きページのページ番号p14)

しかし、著者は人類海中起原説への反論として次のようなことを書いたという ことを忘れてはならない。

 真夏の熱帯であっても海水温度は二九度以上にはならない。海水中に長く浸かると、 体温が奪われて低体温障害を起こす。p161

海中で体温が奪われるのは人間に特有なことなのだろうか、 それとも水の性質なのだろうか。 これは進化論というよりも物理学の問題であって、著者も述べているように 水は比熱が高く、温まりにくく、冷めにくいのである。 このことは動物の体から熱を奪っても水の温度は上がりにくいということである。 しかしそれでも、もしそうやって温度の上がった一部の水が、体の周りに留まり 続けたならば、ちょうど毛皮の毛の間に溜まった空気のように保温の役割を 果たすのではないだろうか。残念ながらそうはいかない。 水は熱伝導率も高いのである。この二つのことから、体温より水温が低ければ どんどん熱が奪われる。

著者の水の熱的性質に対する考えはまったく正反対であり、決定的な間違いである。 これはまさに物理的な水の性質の問題であり、熱の問題に詳しければ 明白な事実である。幸いにも著者は物理学を否定していないので、 こう言わせてもらおう。 著者は熱の問題についてまったく無知であり、 その熱に関する推論は根本的に間違っている。

しかし、それはこの本では些細なことであり、著者の「重複する偶然」理論とは まったく関係がない。著者は物理学者ではないのだから、熱の問題でちょっとした 間違いをしたからといってこの本の価値が下がるものではない。

この本の価値は、「進化論」を否定して新たな理論を立てたという点にある。 ただ、私は進化論的思考から抜けられないので、「重複する偶然理論」の意義 について細かく論じることはできない。「進化論」を否定している理論に、 「進化論」的な立場から批判をすることは、 まったく無意味であると私は考えている。

しかし、「重複する偶然理論」を拡大解釈すれば、 「真に偉大なものは唯一無二である」という一般法則が得られるかも知れない。 そしてそれは著者が孤高の存在であることを示しているかもしれない。